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「随喜」ということ(1)

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昨今の曹洞宗ではこれを、他寺に於ける法要に参加し手伝うこと、の意味で考えている人が多いように見受けられるが、それは「現象のもっとも最後の結果」を指摘するのみで、実際の内容はもう少し別に深いものがある。そこで、以下の一文をご覧いただきたい。

この正法にあふたてまつり、あくまで日夜に修習す、この袈裟を受持したてまつり、常恒に頂戴護持す。ただ一仏二仏のみもとにして、功徳を修せるのみならんや、すでに恒河沙等の諸仏のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。たとひ自己なりといふとも、たふとぶべし、随喜すべし。祖師伝法の深恩、ねんごろに報謝すべし。
    『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻

本当ならば、「随喜」について、鳩摩羅什訳『大品般若経』や、『大智度論』を見ていきたいところであるが、それはそれで一本の記事にしたいと思うので、ここではまず道元禅師の教えを見ていきたい。この文脈の学びを通して、「随喜」の正しい理解をしてみたいと思うのである。

まず、道元禅師は「正法に遇う」ことが肝心だとされる。そして、もしも遇えたのであれば、正法を日夜に修行し習うべきだという。これは、当時が「末法」であるということに鑑みれば、いわんとされることは明確で、そもそも正法・仏法に遇うことが困難である状況下、もし遇えれば驀直に、その教えに従って自ら修めるべきであることを指している。

さて、その時に具体的な修行として同巻にて説かれているのが、御袈裟を受持し、護持することである。他の巻になれば、若干内容を異とするけれども、ここではそうである。ところで、この時の修行とは、ただ一人・二人の仏の下でのみ行うのではなく、無数の諸仏の下で同様の修行をしたという。これは、道元禅師にはこの時、生生世世に生まれ変わり死に変わりして、その上で、多くの諸仏に出会い、修行を行っていくべきだという考えがあった。それが、「功徳を修習する」ということである。

そして、その時に問題になるのは、これはあくまでも「正法に遇うことが出来た祖師」によって行われたことだということである。然るに、繰り返しになるが、道元禅師の場合、末法の世に生まれ、仏の在世時からは時間的に隔たり、場所も遠かった。しかし、そのような祖師、或いは仏がこれまでに行われた、功徳の修習に、この「末世に生まれた我々も、自己を奮って随喜すべき」というのが、ここの本筋なのである。

つまり、「随喜」というのは、善行の功徳が行われるところに対し、それを「あいつばかり良いことしやがって」と「嫉妬」することなく、自らの身心を捧げてともに行うことを指すのである。では、この時の「善行」とは誰がどのように判断するのだろうか?実は、これを判断するのは当然に、「随喜する当事者」なのである。よって、昨今の曹洞宗で用いられる「○○寺の方丈様に随喜してもらおう」というような表現は、誤りである。随喜とは絶対に他から強制できない。せいぜいが、「善行を行うこと」を通知し、「随喜を勧める」こと、これを「勧善」と言い換えても良い。しかし、ここまでだといえる。

また、「随喜」しなかったこと、していただけなかったことを怒るのは、お門違いも良いところだ。そもそも、勧めているだけで、「誰かが誰かを使役する」状況にすらならないのが、随喜の本質なのである。我々は、余りに僧侶というあり方が「仕事」になりすぎてしまって、まるで法要も、「何かの作業現場に出てもらう」様な話であると勘違いしているかもしれない。ところが、そうではない。法要とは、善行の積み重ね、その集大成となるべき修行の現場である。その善行の場にともに荷担するかどうかは、要は、他の修行者の個人的事情でしかない。

類似的事例として江戸時代、「差定」という言葉について、その慎重な運用を促した面山瑞方禅師の教えは、何度も繰り返し参究されるべきであろう。そして、「随喜」という言葉についても我々は勘違いをしてはならないといえる。

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