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「売れる仏教書」に関する雑考

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先日、職場にてとある来訪者がいた。詳細は書けないけれども、仏教書を売るためには?というようなことを聞かれた。その時に、「仏教書」ということについて、ちょっと思うところがあったので、以下に記してみたい。

江戸時代、民衆向けの仏教書というと、拙僧の管見では、1つは旅日記的文献である。旅行記の中に寺院を登場させて、その中に、開山説話などを混入することで、僧侶や教義、歴史などを紹介していく、というものである。或いは教訓本である。その中にも、仏教関係の内容を入れることで、部分的にではあるが、仏教について知ることが出来る。それから、「手習い塾(いわゆる寺子屋)」にて用いられる教科書の中にも、仏教関係(と、儒教)の内容を持つ『童子教』という文献があった。そして、これらをより専門化し、各宗派の教義に即した本などで、在家向けの漢字仮名交じりの法語が出回っていたようである。

さて、明治時代の状況を見ていくと、出版・流通技術の進展により、様々な分野の本が一気に増える。それで、例えば曹洞宗にも関わった大内青巒居士(1845〜1918)という人は、多くの仏教書籍・雑誌・新聞を刊行したけれども、その著書を見ていくと、従来の文献に対する註釈・解説がほとんどであった。『●●経講話』的内容である。しかし、それはやはり専門的であったように思われ、また、青巒居士以外の当時の禅者の著作などには、『通俗●●』というような題を関する本も多く出ている。これは、一般向けの仏教書、という意味なのだが、内容は、その著者本人が分かりやすく仏教について語る、或いは境涯などを示す、というものであった。

そして、戦後は幾度か繰り返された禅ブーム・仏教ブームの中で、色々な本が出たけれども、結局は、専門性を持つ専門書か、通俗的という解説書か、という二分化された状況で刊行が続いているように思う。今だって、大枠はそれほど変わりは無い。そこで、「売れる仏教書」という条件を考えていくと、まずは通俗的である、というところが重要である。専門書は、基本的に専門家しか買わない。それで、通俗的であっても、いい加減な内容ではそろそろ飽きられてきて、さすがに、「タイトルがセンセーショナル」「書き手が有名」という条件が必須となっている。まず、この2つが基本で、後はそのバリエーションとなろう。

前者については、紛れもなく幻冬舎という会社の方法が優れていて、我々僧侶の間、或いは研究者の間でも評判がよろしくない(理由の一端は、拙ブログの記事【島田裕巳著『葬式は、要らない』に一言】参照)島田裕巳氏『葬式は、いらない』などはそのもっとも顕著な成功例といえよう。後者については、結局、有名人が監修なり、著者なりで名前が出ていないと、売れないようである。最近では、曹洞宗の枡野俊明老師の本が、本当に多い。ここ3ヶ月で5冊以上は出ているようであるが、出すためには周囲にいる編集者・ライターが色々とやっているのは明白である。無論、本人が関わっているのは間違いないと思うが、それにしても、ペースが速すぎ・・・拙僧自身もこれまで、幾つかの本を出すことに関わっている経験から申し上げると、ちょっと速すぎる。

有名な人は、一度売れると、その人の名前を使った本が、各出版社から出て来る。一例である枡野老師について、以下に挙げてみよう。

『禅的生活ダイエット - 365日、ご機嫌な自分をつくる「減らす」技術』こう書房、2013・11発売
『禅と食 - 「生きる」を整える』小学館、2013・09発売
『書いて体得する禅すっきり爽やかな心をつくる - 毎日少しずつできるプチ修行帖』メディアファクトリー、2013・09発売
『心配事の9割は起こらない』三笠書房、2013・09発売
『思いが伝わるあなたと家族のエンディングノート - 禅が教える豊かな人生の終い方』PHP研究所、2013・08発売
『ゆったり生きる「踊り場」の見つけ方』青春出版社、2013・08発売

とりあえず6冊挙げてみた。これを見てみると、「ダイエット」「書道」「エンディングノート」と、現代流行している様々な要素の本が出ていることが分かる。転ずれば、それらと枡野老師の「禅」とを組み合わせて書籍を作っているのである。正直なところ、「禅」の汎用性にあぐらをかいている感は否めず、どんなものか?という疑念が無いとはいわない。とはいえ、売れると判断されれば、或いは、一度売れたという実績があれば、我先にそれに乗ろうとする、というのが現実である。

さて、これを判断材料に入れて、「売れる仏教書」について考えると、要は、世間のブームを察知し、それが続いている間に関連書籍を出す、という方法なのであろう。よって、一時的にはワッと売れるが、本当に良いものは、おそらくは少ない。それは作り込みに甘さが見えるためである。また、季節が変わればそもそもの価値は雲散霧消する。だが、「売れる本」とはそういうものらしい。

後は、拙僧的に申し上げることが出来るのは、1冊の本を作るとき、誰が相手で、その人達相手に、何を伝えたいかをちゃんと考えること、だと思うのだ。無論、作る過程で「相手」は変わるかもしれないが、伝えたい内容は変わらないし、これは明確に、作り手の意旨である。拙僧はそこを重視したい。でないと、いたずらにマーケティングで流行に乗って、流行とともに当該仏教書もさようなら、ということになる。だが、仏祖の言説を弄するのであれば、そんなことで良いのだろうか?仏説は三世に亘るのではなかったか?そういうことに思いをめぐらすとき、先に挙げた「作り手の意旨」というのは、本当に大切で、後は、それが世間に受け入れられるかどうか、なんだろうけど、布教教化と同じで、それもまた大問題。

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