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今日は「文化の日」だそうです

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今日11月3日は「文化の日」だそうです。そう思っていたら、日本文化論としては古典中の古典になる家永三郎先生『日本文化史(第二版)』(岩波新書・黄187、1994年第26刷)が、書棚から出て来ましたので、今日はそれを読みながら、思うところを書いていきましょう。

ところで、冒頭から恐縮ですが、おそらく「岩波書店」という会社自体が、そういう志向性を持っているのでしょうけれども、同社から出る「新書」では、結構“無理のあるタイトル”を付けている場合が少なくないように思います。まぁ、これまた古典中の古典、丸山眞男氏『日本の思想』・・・たった一冊で、日本の思想を網羅するという意欲的作品です。或いは、末木文美士氏『日本宗教史』・・・たった一冊で、日本の宗教の歴史を網羅するという意欲的作品です。そして、今回の『日本文化史』・・・たった一冊で、日本の文化の歴史を網羅するという意欲的作品です。

どうやったら、これらの無理が通ってしまうのか?筆者は相当に困っただろうと容易に想像出来てしまうのですが、実際に家永先生も、こんな書き方をしています。

・この本では、日本文化の発展の大すじを、筆者の平素の考えにしたがって大胆にえがき出すことに主眼をおいた。だから、こまかい問題に深入りすることを避け、筆者がくわしい知識をもたないことがらは、かなり重要なことでも筆をはぶいたりしているので、網羅的な概説とはなっていない。新書一冊の小さな分量で日本文化史をまとめあげるとすれば、それがもっとも適当なやり方であろうし……〈以下略〉
・新書編集部から日本文化史を書くように御依頼を受けたのはもう数年前のことである。だが、一人で日本文化史の全体を論ずるなどだいそれた試みであることがよくわかっていたので、なかなか筆を執る決心がつかず、とうとう今日にいたった次第である。(ともに、「第二版はしがき」から引用)

おそらくこれは、家永先生の良心がこうさせたんだろうと思うのだけれど、結局はこう書かざるを得ないのでしょうね。あくまでも、家永流の切り口で、日本文化の大体のところを書いていく、そうでないと分量的に問題で、しかも、戦後15年が経過したこの時代(同はしがきは、1959年に書かれている)は、各専門分野の研究も著しく向上していたので、そういう研究書が出ている以上は、専門的な深いところはそちらに任せようという意図もあったようです。

さて、今回の『日本文化史』を読んでいて、とりあえず拙僧的に関心があったのは、「家永先生が、日本文化発展に於ける『仏教の役割』をどう描いているか?」ということでございました。実際に、どう関わったかについては、議論があるところで、通俗的にいわれていること(水墨画、とか、一部建築様式など)については、今更ここで見ていく必要も無いので、総論的な評価をどう見ているかということです。すると、やはり聖徳太子(家永先生はその実在に、勿論疑問符を付けている)周辺の飛鳥文化、そして聖武天皇周辺の天平文化に見る、国家的事業としての仏教受容を挙げなくてはならないところで、家永先生も勿論挙げておられます。

しかし、それは、現代まで繋がってくるかというと、無論、一種の仏教美術として残ってはいますが、信仰までも含めた同一性という事を考えると、鎌倉仏教の方が分かりやすいというべきでしょう。次のようにございます。

 法然の専修念仏の唱導をきっかけとして、仏教会の内部に、さまざまの新しい思想運動がまきおこされたのであるが、一方、国内の仏教界の動きとは別に、大陸から新しく伝えられたのが、禅宗であった。
 日本と宋との国交はついに開かれなかったが、平清盛の日宋貿易拡大の試みなどもあって、商人や僧侶の往来は活溌となり、日本の僧侶で入宋して禅を学んで帰るものが少くなかった。一一九一(建久二)年に帰国した栄西は、臨済宗を伝え、これが日本の禅宗の主流となるのであるが、かれは密教の僧侶としての一面があり、純粋の禅僧とはいいにくい。一二二七(安貞元)年に帰国し、曹洞宗の開祖となった道元によって、一切をなげうち、ひたすら坐禅することによってのみ悟りを開きうるとする禅宗の真精神がもたらされたのである。
    『日本文化史』129〜130頁

この栄西禅師と道元禅師への評価ですが、どうやら「こういう風に表現した人」というのが多いのでしょうね。実際のところは、栄西禅師という方は、道元禅師も「師翁」と仰ぎ、当時の人からしてみても、とにかく巨大な業績を残した人であったので、スーパースターであったことは疑い無いのです。知名度も、道元禅師と比べた場合、遙かに栄西禅師の方が大きかったことでしょう。そして、ここには、「移入の試み」があり、「その後本物が来た」という「流れ」を作り出したいと思われる、史家の想いが見えるのですが、実際のところは、栄西禅師の段階で、相当に揃っていたと見るべきで、道元禅師はともかくも、その後陸続とやってくる、宋からの来日僧(蘭渓道隆、無学祖元など)がその「本流」を伝えたのです。

道元の厳格な宗風は、ある意味では、余行をしりぞけて念仏一行を専修することを説く浄土宗や、法華経以外成仏の道を認めない日蓮宗と共通するものがうかがわれて興味深い。また、かれの教えが中国の禅道を忠実に実践しようとする移植思想的色彩の濃いにもかかわらず、かれの主著『正法眼蔵』が、仏教教理書として異例の国文で書かれているのも、重視してよかろう。抽象的な哲学的思弁を国文で表現するということは、哲学的思弁が日本人の独立の思索によって行われることと無関係な事実ではないと思われるからである。
    前掲同著、131頁

この評価についても、今となっては、「専修思想」の適用範囲をどう定めるかで、議論があっても良さそうなものです。少なくとも、道元禅師については、法然上人や日蓮聖人のような、「成仏の条件を狭める」という意味での「坐禅」を説いたわけではありません。確かに、『弁道話』や『正法眼蔵随聞記』では、そういう説示が見えないわけではありません。ただし、おそらく晩年は全く違う機構での成仏を期しておられたことと思いますし、また、ここでいわれる「国文」についても、道元禅師が500回を超える「上堂」を行ったこと、そしてそれが「漢文」で記録されたことなどを思うに、限定的なことだとして良いのではないかと思うわけです。

しかも、結局「禅」は、鎌倉時代から室町時代に到って、先に挙げた如く「来日僧」や、「留学僧」が増え、また地域は限定されるでしょうが「五山文学」などの芸術運動にまで高められましたが、結局はこれも極めて限定的であり、全日本を席巻し、その後の日本人の心の奥深くまで影響するとまではいえない状況であったといえましょう。ただ、反面、京都を中心に、その時代の文化がそのまま、禅宗寺院の維持と運営の中で、現在まで生き続けている事実も否めません。或る意味、それこそが、禅宗(特に臨済宗)が担った文化だったといえるのかもしれません。しかも、日本の中にありながら、どこか「排除」されている物、それが「日本仏教文化」だったといえるでしょう。

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