あくまでも、本備忘録は試論であって、私見であるから、まだ今後の調査でどうなるか分からないが、1つ、江戸時代末期に起きた或る「事件」を考えておきたい。この事件は、江戸時代末期、曹洞宗の行持をどのような差定で行うか、その前提を根底から揺るがすものであったと、拙僧は理解している。
ここに至る理由の詳しいことは、『總持寺誌』及び、大久保道舟博士編『道元禅師清規』(岩波文庫、昭和16年)の解説に詳しいので、それらをまとめる形の記事にする。
この一件の中心となった人物は、永平寺50世・玄透即中禅師である。玄透禅師は1729年名古屋で生まれ、出家した後、彦根清涼寺の頑極官慶を本師として、嗣法した。その後、備前円通寺、美濃の善応寺、武蔵の龍穏寺(関三刹の一)等に住し、寛政7年(1795)には、50世として永平寺に晋住した。
なお、玄透禅師はこの時までに宗門清規の研究を進めており、1793年には備前円通寺のために、『円通応用清規』(『続曹全』「清規」巻所収)を編み、翌年には道元禅師の清規を編集し『冠註永平清規』を刊行した。このように、清規研究及び普及に熱心であった。研究の成果により、特に「木魚(魚鼓ではない方)」について大いに批判し、当時永平寺にあった木魚を全て打ち壊したともいわれる。
これらに続いて玄透禅師は、永平寺に住しているときに、道元禅師の真意に背く者が多いことを嘆き、道元禅師の『永平清規』を基本にし、『禅苑清規』『勅修百丈清規』『幻住庵清規』といった他の清規を参照しながら、中世の禅林で退廃した叢林の規矩を復古せんとして、『永平小清規(全3巻)』(1805年刊行)を編まれた。
さて、江戸時代初期から中期にかけて、日本曹洞宗では加賀大乗寺の月舟宗胡師を先達としながら、卍山道白師などによって、古規復古運動が展開されていた。大乗寺は優れた規矩を整えているとされ、「規矩大乗」の名をもって賞讃された。しかし玄透禅師は、『永平清規』への復古を強く訴え、当時輸入されていた明代の作法などを批判し、月舟師や卍山師が『椙樹林清規』で影響を受けた『黄檗清規』を批判した。
そして、実力行使に打って出た。寛政7年に玄透禅師は、前年に自ら刊行した『冠註永平清規』と親書を、当時の大乗寺住職・無学愚禅師に寄せ、古規の履修を要求した。しかし、容易には定められず、2年後、愚禅師は大乗寺を退董しようとした。すると、永平寺は住持不在を理由に結制を置くことを止めさせようとしたが、大乗寺も反発し、幕府への訴えなどを通した裁判となった。結果、享和2年(1802)に関三刹などからの調停もあって、道元禅師550回大遠忌の忌日に、その御真前に懺悔し、和合を確認したという。
つまり、江戸時代末期、両大本山や、地方の有力な叢林などで、清規の標準化を回る争いが既に存在していたことになる。そして、こうしたこともあり、明治時代には行持改正が模索され、明治21年11月に『明治校訂洞上行持軌範(全3巻)』が編集され、統一がなったといえる(刊行は翌年8月)。
なお、明治時代以降の布達などを細かく見ていくと、もう少し詳細も理解できるのだが、今回はあくまでも江戸時代までの状況を記して、この記事としておきたい。
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この一件の中心となった人物は、永平寺50世・玄透即中禅師である。玄透禅師は1729年名古屋で生まれ、出家した後、彦根清涼寺の頑極官慶を本師として、嗣法した。その後、備前円通寺、美濃の善応寺、武蔵の龍穏寺(関三刹の一)等に住し、寛政7年(1795)には、50世として永平寺に晋住した。
なお、玄透禅師はこの時までに宗門清規の研究を進めており、1793年には備前円通寺のために、『円通応用清規』(『続曹全』「清規」巻所収)を編み、翌年には道元禅師の清規を編集し『冠註永平清規』を刊行した。このように、清規研究及び普及に熱心であった。研究の成果により、特に「木魚(魚鼓ではない方)」について大いに批判し、当時永平寺にあった木魚を全て打ち壊したともいわれる。
これらに続いて玄透禅師は、永平寺に住しているときに、道元禅師の真意に背く者が多いことを嘆き、道元禅師の『永平清規』を基本にし、『禅苑清規』『勅修百丈清規』『幻住庵清規』といった他の清規を参照しながら、中世の禅林で退廃した叢林の規矩を復古せんとして、『永平小清規(全3巻)』(1805年刊行)を編まれた。
さて、江戸時代初期から中期にかけて、日本曹洞宗では加賀大乗寺の月舟宗胡師を先達としながら、卍山道白師などによって、古規復古運動が展開されていた。大乗寺は優れた規矩を整えているとされ、「規矩大乗」の名をもって賞讃された。しかし玄透禅師は、『永平清規』への復古を強く訴え、当時輸入されていた明代の作法などを批判し、月舟師や卍山師が『椙樹林清規』で影響を受けた『黄檗清規』を批判した。
そして、実力行使に打って出た。寛政7年に玄透禅師は、前年に自ら刊行した『冠註永平清規』と親書を、当時の大乗寺住職・無学愚禅師に寄せ、古規の履修を要求した。しかし、容易には定められず、2年後、愚禅師は大乗寺を退董しようとした。すると、永平寺は住持不在を理由に結制を置くことを止めさせようとしたが、大乗寺も反発し、幕府への訴えなどを通した裁判となった。結果、享和2年(1802)に関三刹などからの調停もあって、道元禅師550回大遠忌の忌日に、その御真前に懺悔し、和合を確認したという。
つまり、江戸時代末期、両大本山や、地方の有力な叢林などで、清規の標準化を回る争いが既に存在していたことになる。そして、こうしたこともあり、明治時代には行持改正が模索され、明治21年11月に『明治校訂洞上行持軌範(全3巻)』が編集され、統一がなったといえる(刊行は翌年8月)。
なお、明治時代以降の布達などを細かく見ていくと、もう少し詳細も理解できるのだが、今回はあくまでも江戸時代までの状況を記して、この記事としておきたい。
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