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「教判」から「行判」へ

衛藤即応先生の『正法眼蔵序説』(岩波書店)という本がある。とはいえ、刊行は著者入寂後ではあるが、いわゆる正法寺本『弁道話』(草稿本)の価値を世に広め、また、多くの問題提起を我々に示してくれた大著である。その大著の一章に、「教判から行判へ」というものがあり、そこからこの記事のタイトルを定めた。

一般的には「教判」というのは、「教相判釈」というので、多少なりとも仏教を学んだ人なら聞いたことがあると思う。インドから中国に、大量の仏教文献がもたらされ、翻訳されてくると、「何がブッダの真の教えか?」をめぐって、依る経論の違いなどもあってか、様々な議論が起きた。その時に、「教相」によって、教えの深浅を「判釈」するという方法が採られたのである。

よって、教理教学から仏教に入る宗派であれば、まずは自己の宗派の優位性を「弁証」するために、何故自らが依っている経典が勝れているかを説く。その時の論拠に、「教相判釈」は機能するわけである。華厳宗なら『華厳経』、天台宗なら『法華経』、真言宗なら『大日経』『金剛頂経』といった具合である。

ところで、禅宗にはそのような「所依の経典」はないとされる。実際には、菩提達磨の頃は『楞伽経』に依っていただろうし、六祖慧能は『金剛般若経』、その後宋代まで来ると『円覚経』『首楞厳経』などが重視されていたので、決して経典と無縁の宗派であったと、安易な断定は出来ないのだが、やはり「教外別伝」というスローガンの影響は大きく、その結果、所依の経典は無いとするのである。無論、道元禅師は『法華経』を強く信じておられたが、「所依の経典」にされているわけではない。我々禅宗、曹洞宗に「教判」はないのである。その点を、良く示したのが、以下の一文である。

しめしていはく、しるべし、仏家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草華山水にひかれて、仏道に流入することありき、土石沙礫をにぎりて、仏印を稟持することあり。いはむや広大の文字は、万象にあまりて、なほゆたかなり、転大法輪、又一塵にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらに又、かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、直実の道人とならしめん、となり。
    『弁道話

衛藤先生は、この一節を解説されて、「教判から行判へ」とされて、以下のように力説される(番号は、引用の関係上、拙僧が付す。原文には無い)。

?依文解義の教学の立場を捨てて、仏法を生活に体現する行いに立場を転換したのが「仏家には教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」という本文の主旨である。(前掲同著、180頁)
?教えを捨てて行いを取るというが、教法による従来の判釈のように、取捨をあえてして教法を捨てるというのではなく、批判の標準を教法におかないで修行に求めよというのである。(180頁)
?批判の対象を、行いにおいてその真偽を判定する標準はなんであるか。それはこの巻の初めに「自受用三昧その標準なり」とある。(181頁)
?教えより行いに転じた正伝の仏法は、一切の教法の根源である釈尊の、樹下成道の自受用三昧に立って、純粋行としての坐禅を基本とする。
?この行いは、もはや方便手段としての行いではなく、行証一如の純粋行であるから、「此の行持あらん身心みづからも愛すべし、みづからも敬ふべし」といい「われらが行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり」といえるのである。(181〜182頁)

ここで、衛藤先生の指摘に重要な内容が見える。我々自身、「行相判釈」などというと、何か「教判」のように、明確な基準があって、その上で価値判断を付けられるのではないかと早合点してしまう。しかし、衛藤先生は、上記引用文の?で挙げたように、「取捨をあえてして教法を捨てるというのではなく」と注意されている。つまり、取捨選択の話として、「判釈」を持ってきているのではない。ただ、仏法の真偽を「行」に置くように述べているのである。その時、我々は、かつての「教」のような方法で「判釈」するわけにはいかない。努めて、それは「視覚的問題」に基づく分別的思考になってしまう。そうではなく、「身体的(触覚的)問題」に基づく無分別的行動でもって、「判釈」に換えるべきなのである。

衛藤先生が、?のように仰る時、我々の判釈は、「触覚的問題」にまで掘り下げていく必要がある。衛藤先生は?のように『正法眼蔵』「行持」巻を引いておられ、これは「身体的問題」を論じる時には有効だ。しかし、改めて「触覚的問題」として、判釈せんとする解き、我々に参照されるべき文脈はむしろ、以下のもののはずである。

道吾いはく、如人夜間背手摸枕子。いはゆる宗旨は、たとへば、人の夜間に手をうしろにして、枕子を摸索するがごとし。摸索するといふは、さぐりもとむるなり。夜間はくらき道得なり、なほ日裏看山と道取せんがごとし。
    『正法眼蔵』「観音」巻

有名な「夜間背手摸枕子」の語を、道元禅師が提唱された箇所であるが、ここに、「触覚的問題」を開くために必要なキーワードが含まれている。いや、この状況そのものは、誰であっても実践することが出来る。今日、夜寝ていて、変な時間に眼が醒め、しかも寝相の問題で枕が頭下にないという時、真っ暗闇の中で寝っ転がったまま枕を探して見れば良いのだ。そこで、夜間、何もないと思っているところを手が泳ぎ、そして枕に触れたとしよう。しかし、それは本当に枕なのであろうか。よって、我々は綿密にその枕に手を触れて、それがそのものであることを確認しようとする。問題は、その確認というよりも、手探り、そして手によって対象を決めようとする行いである。

「行」とは、詰まるところ、どのようにして仏陀の自受用三昧に生きていくかということである。自受用三昧をどう体得しているかということである。そうなっていくと、我々の坐禅はまさに、その肝心なところを「探り当てる」べく、綿密な修行をしていかざるを得ない。その綿密な修行を、「兀兀と坐定して」とはいうのである。「兀兀」とは、巌のように、ということではなくて、「コツコツと」という意味の方が、むしろ精確である。だから、何となくとりあえず坐る、ということではなくて、やはり探り当てていく努力が必要となってくる。探り当てれば、教判でもって、「ブッダの真の教え」を探り出すのと、全く同じこと、或いはそれよりもよほど根源的なことをしているのだから、「行判」で良いという話になっていく。

しかも、それは行を続けるその当の本人が、ただどこまでも安住していくのだから、むやみやたらに、他の人に向かって、自らの優位性を説く必要も無くなってくる。ただ坐禅、ただ作務、ただ食事、ただ睡眠である。この「ただ」を「只管」とはいわれるのである。そして、探り当てているとき、たとえ「夜間」の話であったとしても、「なほ日裏看山と道取」せんが如き状況にもなる。これは、強引に、視覚的情報に、触覚的情報を還元しているのではなく、触覚的情報であっても、その中に「独自の明瞭さ」があるといわれているのである。しかも、その「明瞭さ」を、我々はすぐに「視覚的状況」で考えてしまうが、それもまたおかしな話である。そうではなくて、仏法が、自受用三昧が、明瞭なのであるから、目で見えているのではない。見えていないのではない。現象それ自体が仏法であり、自受用三昧である。

だから、日常的な認識や観念に於いて、「あ、分かった!」というような実感が得られるのでもない。もし、得られたと感じられたとき、それは全て「仏法の局量」である。その類の実感を得るための方途とは、全く回路が違っているが、しかし、分かってはいる。そして、それで十分なのだ。十分であるとき、我々にとっての「真」となる。「真」であれば、迷うことはない。この修行を行える人を「大修行底の人」とはいう。

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