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『伝光録』に於ける蔵身の論理

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「蔵身」という用語がある。「身を蔵ます」ということであり、没蹤跡などを意味する言葉だが、強いていえば、わずかたりとも我見を遺さず、仏法そのものに成り切ることをいう。道元禅師には『正法眼蔵』「葛藤」巻に、「蔵身」に関する提唱が遺されているけれども、瑩山紹瑾禅師にもまた「蔵身」を用いた提唱が見られる。よって、本論ではその文脈を丁寧に採り上げてみたい。

なお、「蔵身」であるが、薬山惟儼禅師の法嗣である船子徳誠禅師がその法嗣である夾山善会禅師に伝法した際に述べた言葉である。

汝、今、已に得たり。向後、城隍・聚落に住すること莫れ、直に須らく蔵身処没蹤跡、没蹤跡処莫蔵身なるべし。深山钁頭の辺に向きて、一箇半箇を接取して、吾が宗を嗣続し、断絶せしむること無かれ。
    『永平広録』巻8-法語8

さて、この「蔵身」について、瑩山禅師は『伝光録』にてどのように用いられているのか?

故に船子和尚曰く、直に須らく身を蔵す処蹤跡なく、蹤跡なき処、身を蔵すことなかるべし。吾れ三十年薬山に在て祇だ斯事を明らむ。純清絶点是れ身を蔵す処に非ず。光境共に忘ずと謂ふとも、猶お此処に蔵身すること勿れと謂ふ。
    第8章

瑩山禅師は「光境共に忘ずと謂ふとも、猶お此処に蔵身すること勿れと謂ふ」と論じている。光源とその照らされた先である対象への能所二見を忘じたといっても、このところに身を蔵ますことすら許されていない。普通ならば、能所二見を破った段階で、十分に仏法への蔵身が出来ている。しかし、実践的には、そこにすら落ち着いてはいけないという。その意味で、蔵身とは、仏向上事のことであるとも分かる。

一針釣り尽くす滄溟の水、獰龍到る処に蔵身し難し。
    第15章・頌古

『伝光録』一仏五十二祖の各章には、必ず瑩山禅師の頌古が付されている。この頌古は、明らかに船子禅師と夾山禅師の伝法の現場を元にして説かれている。そこで、まずは仏法を自在に使いこなす師家の「一針」の力を示している。それは、「釣り尽くす」という「尽」の自在さである。そして、その師家の力によって、優れた法嗣である獰猛な龍であっても、蔵身し難いというのである。よって、この場合の「蔵身」は、師資の相互関係を表現したものといえる。

子細に参徹して不可得の処を得来り、不思議の際に到りもてゆく。断滅に同ふすることなく、木石に等きことなく、能く空を扣て響を為し、電を繋で形を為し、没蹤跡の処に子細に眼を著け、更に蔵身することなくんば好し。
    第30章

これは瑩山禅師の宗風をよく示している一節である。不可得・不思議の処に到るのは、それまでの曹洞宗系統の、黙照の黙に等しい。だが、それであっても断滅や木石などの状況と同一視すること無く、空から響きを、電から形を出すようにしなくてはならないとし、それは没蹤跡の処に目を付けて、蔵身することがないように、と示している。つまり、瑩山禅師は黙よりも「照」に重きを置いているといって良い。それを「蔵身」の否定によって示す。

実に是れ這箇の田地喚で一句とすべきに非ず。錯て名言を下す。雪上に鳥跡あるに似たり。故に謂ふ、蔵身の処に跡なしと。実に見聞覚知悉く息み、皮肉骨髄皆尽て、後更に何物の跡とすべきかあらん。
    第46章

こちらは、素直に蔵身・没蹤跡の用語を用いている。それは、見聞覚知や皮肉骨髄を消尽した境涯を示すために用いている。しかし、瑩山禅師はこの提唱に続けて「若し能く一毫髪も跡を為さざれば、果然として顕はれ来る」とある通り、跡形を滅し尽くした後、そこに顕れたる道理を説くが、これが「照」である。

さて、瑩山禅師が用いた「蔵身」について、敢えて「黙照」という観点から読み解いてみた。そうすると、「黙」の提示に「蔵身」を用いつつも、それを否定しつつ、その先の「照」に重きを置いた提唱がされていることが分かる。道元禅師はこの「照」について「現成」という用語をもって提示されたことが、『正法眼蔵』「坐禅箴」巻から知られるが、それは瑩山禅師も坐禅観に関わる提唱で取り入れている。この詳細を見ても、曹洞宗の宗風の在処は明確である。

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