Quantcast
Channel: つらつら日暮らし
Viewing all articles
Browse latest Browse all 15752

「雪裏の梅華」とは何か?(続き)

$
0
0
以前に書いた【「雪裏の梅華」とは何か?】の続きである。

正法眼蔵』「梅華」巻は、60巻本に入らないため、永平寺五世・義雲禅師の頌著は残らないけれども、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師の述賛は残っている。そこで、法系の斧山和尚『正法眼蔵聞解』にも影響を与えた「賛」を見てみたい。

賛に言わく、
衆生の五蘊、諸仏の五智、少林の五葉、洞山の五位、一串に穿却して、同も無く異も無し。
郁郁芬芬、是れ西来意。
会すべし前村深雪の裏、薫じて衲僧遼天の鼻を撲つ。
    面山瑞方禅師『正法眼蔵』「梅華」巻・賛

これについて、斧山和尚は次のように総括している。

梅は一華五葉で法の道理によく合ふ故に、如浄和尚・永平祖師は、常に梅を以て説法すること多し。法は大方、五で尽きる。諸仏の上では、五分の法身五智等、衆生では五蘊等真諦俗諦の法について無量無辺の法あるも、大方五で尽る・・・
    斧山和尚『正法眼蔵聞解』「梅華」巻

要するに、梅の華には、五枚の花びらがあるということを、「一華五葉」という。決して、葉っぱの枚数を指摘しているのではない。密教の曼荼羅では、「八葉」などというが、これは「蓮華」の花びらを指している。よって、そう理解すべきである。また、これに関連して、道元禅師がこのように述べている。

しかあるを、かつて参学眼なきともがらいはく、五葉といふは、東地五代と初祖とを一華として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆえに五葉といふ、と。この言は、挙して勘破するにたらざるなり。これらは参仏参祖の皮袋にあらず、あはれむべきなり。五葉一華の道、いかでか五代のみならん。六祖よりのちは道取せざるか。小児子の説話におよはざるなり、ゆめゆめ見聞すべからず。
    『正法眼蔵』「梅華」巻

かつて、「五葉」というのは、中国の初祖達磨から五祖弘忍までの祖師方を指したものであるという。しかし、道元禅師が御指摘の通りで、本当に禅宗の良き伝統とは、その五代だけなのか?インドは?或いは、中国六祖慧能以降はどうなるのか?よって、この解釈は積極的に否定される。この否定については、もちろん曹洞宗の門流では常識であり、面山禅師・斧山和尚の指摘は、この「五葉」を、「法の道理」として再解釈して示すことにあるといって良い。

法とは、仏法のみを意味しない。この衆生の世界に於ける諸存在についても、「五葉という法の道理」で括ることが出来る。だからこそ、面山禅師は、衆生の五蘊・諸仏の五智・少林の五葉・洞山の五位を「一串」で括ったといえる。これは、生仏一等という境地からいわれることである。そして、改めて「梅華の功徳」を考えてみれば、遍界にその香りがたなびき、その実相が「西来意」である。祖師がインドに来た、仏法の働きを示すといえる。そして、雪の中にある梅華、つまりは雪裏の梅華であっても、僧侶の天にまで通る鼻の全てを打つが如く、素晴らしき香りをもたらしているということになる。これは、仏法の功徳が全世界を覆っていることをいう。

拙僧つらつら鑑みるに、結局は、遍界不曾蔵なる仏法の功徳(一華のことで、この一は全一の一)を、敢えて具体化した時に「五葉」になるといえる。よって、「一華開五葉」であるが、更に、それが仏法の功徳である以上、それは偏りがない。偏りがない様子を、「雪裏の梅華」とはいう。よって、一華開五葉から、雪裏の梅華まで展開して、初めてそれは仏法の働きを、能く究め尽くすといえるのである。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗10〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 15752

Trending Articles