以前、映画『禅 ZEN』に、時代考証の補佐で関わった時のこと、道元禅師は絡子を着けていたかどうか?という話になったのを記憶している。それで、諸先生・諸老師にお尋ねし、「着けていたであろう」という話になって、それで実際にかなり大きめではあったが、道元禅師を演じた主演の中村勘九郎(当時は勘太郎)さんには、絡子を着けてもらった。
で、勿論に文献上、道元禅師の時代に絡子があったことは周知しており、それが、果たして初期曹洞宗教団に影響していたかどうか?が問われたのである。なお、道元禅師在世時以前の文献にこう書いてある。
亡僧、初め化して、即ち澡浴・剃頭し、掛子を披く。
『禅苑清規』巻七「亡僧」
要するに、亡僧喪儀に於ける事前準備の一節なのだが、或る修行途中の僧侶が療養の甲斐なく亡くなってしまったとき、その後、遺体を洗い、頭を剃り、そして(法服を着せて)掛子を掛ける、という話なのである。なお、この「掛子」は、「掛絡」の略で、この「掛絡」から、それぞれ略語として「掛子」「絡子」が出来たとされる。つまり、「絡子」のことである。この『禅苑清規』は12世紀前半には中国で刊行されていて、道元禅師も随処で引用されるし、また、弟子である僧海首座が亡僧で死去した際には亡僧喪儀を実施しておられるようだから、当然にこの方法に従ったのであろう。
で、だとすれば、この「掛子」「絡子」について、道元禅師御自身の著作で何か触れていてくれても良いのでは?とか思うのだが、それが中々見当たらない。道元禅師は、『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻で、『根本説一切有部百一羯磨』巻十から引用しながら、最小の袈裟である「五条衣」についての指摘があるが、それは複数の大きさによる製法があることを示すものであるけれども、「掛子」自体は中国で成立したとされているので、インド以来の戒律を引いただけでは、直接の関係は分からない。
そういうことで悩んだわけだが、どうも、その映画を作るときに影響したのは、大本山永平寺に所蔵される、或る宝物の影響であったらしい。
大本山永平寺にて編集された『永平寺史料全書』「禅籍編・第二巻」(2003年)には、「開山祖師掛子裏書」が収録されている。これは、永平寺四世の義演禅師(?〜1314)が道元禅師の「掛子」の裏に次のように記したものである。
開山祖師掛子
門人義演
奉獻
前掲同著、123頁画像参照
つまり、道元禅師の侍者で門人であった義演禅師が、「これは、開山祖師の掛子ですよ」と書き残してくれた、ということになる。なお、興味深いのは、この宝物が入った箱には、「開山袈裟環」まで入っているのだが、やっぱり道元禅師の御袈裟には、「環」があったんだろうねぇ(と、遠い目をしながらいってみる)。さておき、この義演禅師が裏書きを書かれた「掛子」なのだが、問題はその大きさである。
前掲同著によれば、「縦80センチ×横126センチ」とある。これは、現状の我々が用いている「絡子」よりもかなり大きい。実は、これがあって、映画で使った絡子も相当に大きく、一部の宗侶からは「臨済的であり得ない」とかいわれてしまったのだが、現存する道元禅師の掛子は、あの映画で使った物よりも、更に大きいのだ。
これが何を意味するかといえば、元々、「掛絡」とは大きなものであった。今の首からぶら下げて、胸の前にある「絡子」よりも全然大きくて、イメージ的には、「若干小さめな御袈裟」というべきなのである。ただし、これは知られておいて良いが、川口高風先生(愛知学院大学)が、各地で集めた絵像では、かなり大きな「五条衣」を着けたものが見られるため、別に珍しいことではなかったといえる。また、「五条衣」は「行道衣」ともいうが、要するに旅立ちの時の服装でもある。だからこそ、喪儀の時に亡僧に着けさせるのだ。
等を考えていくと、やっぱり、道元禅師は五条衣を「掛子」として認識し、そのように用いておられたのだろう、ということと、一方でそれは、現在の我々が使うような、本当に小さい「絡子」の形状ではない、ということになるのだろう。
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で、勿論に文献上、道元禅師の時代に絡子があったことは周知しており、それが、果たして初期曹洞宗教団に影響していたかどうか?が問われたのである。なお、道元禅師在世時以前の文献にこう書いてある。
亡僧、初め化して、即ち澡浴・剃頭し、掛子を披く。
『禅苑清規』巻七「亡僧」
要するに、亡僧喪儀に於ける事前準備の一節なのだが、或る修行途中の僧侶が療養の甲斐なく亡くなってしまったとき、その後、遺体を洗い、頭を剃り、そして(法服を着せて)掛子を掛ける、という話なのである。なお、この「掛子」は、「掛絡」の略で、この「掛絡」から、それぞれ略語として「掛子」「絡子」が出来たとされる。つまり、「絡子」のことである。この『禅苑清規』は12世紀前半には中国で刊行されていて、道元禅師も随処で引用されるし、また、弟子である僧海首座が亡僧で死去した際には亡僧喪儀を実施しておられるようだから、当然にこの方法に従ったのであろう。
で、だとすれば、この「掛子」「絡子」について、道元禅師御自身の著作で何か触れていてくれても良いのでは?とか思うのだが、それが中々見当たらない。道元禅師は、『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻で、『根本説一切有部百一羯磨』巻十から引用しながら、最小の袈裟である「五条衣」についての指摘があるが、それは複数の大きさによる製法があることを示すものであるけれども、「掛子」自体は中国で成立したとされているので、インド以来の戒律を引いただけでは、直接の関係は分からない。
そういうことで悩んだわけだが、どうも、その映画を作るときに影響したのは、大本山永平寺に所蔵される、或る宝物の影響であったらしい。
大本山永平寺にて編集された『永平寺史料全書』「禅籍編・第二巻」(2003年)には、「開山祖師掛子裏書」が収録されている。これは、永平寺四世の義演禅師(?〜1314)が道元禅師の「掛子」の裏に次のように記したものである。
開山祖師掛子
門人義演
奉獻
前掲同著、123頁画像参照
つまり、道元禅師の侍者で門人であった義演禅師が、「これは、開山祖師の掛子ですよ」と書き残してくれた、ということになる。なお、興味深いのは、この宝物が入った箱には、「開山袈裟環」まで入っているのだが、やっぱり道元禅師の御袈裟には、「環」があったんだろうねぇ(と、遠い目をしながらいってみる)。さておき、この義演禅師が裏書きを書かれた「掛子」なのだが、問題はその大きさである。
前掲同著によれば、「縦80センチ×横126センチ」とある。これは、現状の我々が用いている「絡子」よりもかなり大きい。実は、これがあって、映画で使った絡子も相当に大きく、一部の宗侶からは「臨済的であり得ない」とかいわれてしまったのだが、現存する道元禅師の掛子は、あの映画で使った物よりも、更に大きいのだ。
これが何を意味するかといえば、元々、「掛絡」とは大きなものであった。今の首からぶら下げて、胸の前にある「絡子」よりも全然大きくて、イメージ的には、「若干小さめな御袈裟」というべきなのである。ただし、これは知られておいて良いが、川口高風先生(愛知学院大学)が、各地で集めた絵像では、かなり大きな「五条衣」を着けたものが見られるため、別に珍しいことではなかったといえる。また、「五条衣」は「行道衣」ともいうが、要するに旅立ちの時の服装でもある。だからこそ、喪儀の時に亡僧に着けさせるのだ。
等を考えていくと、やっぱり、道元禅師は五条衣を「掛子」として認識し、そのように用いておられたのだろう、ということと、一方でそれは、現在の我々が使うような、本当に小さい「絡子」の形状ではない、ということになるのだろう。
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