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無住道曉『沙石集』の紹介(12ε)

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前回の【(12δ)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今は、「6 強盗法師道心有る事」を見ていきます。南都(奈良)に悪僧がいたのですが、それが発心して強盗を行うようになりました・・・???とりあえず、詳しいことは、お話をご覧ください。他にも、類似したお話を紹介しています。

 (前回の記事を受けて)だからこそ、中古の時代の先達は、自らの徳を隠して仏道を養われた。わずかの徳を外に表して慢心を起こし、(寄進などの)利益を受け、他の僧をけなし、疎ましく思われるのは、(その当人の)内心・外見は清らかかもしれないが、声聞乗の自利行には契っても、菩薩広大の行には背くと、古徳も解釈(=元暁『持犯要記』の略述)している。
 そうであれば、真実の道心がある人は、自分の徳を隠し、失敗もしないように慎んで、仏道修行を細やかに行うべきである。仏の衣鉢をもって自分の生活を行いながら、仏の制戒に背くのは、在家の十悪よりも酷い、と、『仏蔵経』には説かれている。在家の悪人は人の師とはならず、自ら悪道に堕ちるだけである。出家が非法を行えば、多くの人に悪を教え、学ばせることになる。それは、三千界に生きる衆生の、仏法への眼を挫くことになる、といわれている。
    拙僧ヘタレ訳

短い本文引用ですが、多くのことを学ぶことが出来る文脈であると存じます。まず、ここで主眼になっているのは、「隠徳」ということです。徳を隠す、ということです。これについては、こういった話もあります。

夜話に云く、学道の人、世間の人に、知者もの知リと知られては無用なり。〈中略〉伝へ聞く故高野の空阿弥陀仏は、元は顕密の碩悳なりき。遁世の後、念仏の門に入つて後、真言師ありて来つて密宗の法門を問ひけるに、彼の人答へて云く、「皆忘レをはりぬ。一事もおぼえず」とて答へられざりけるなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻3-9

道元禅師もまた、似たような「隠徳」を話しておられます。一応、道元禅師のこの文脈については、世間の人に物知りと知られて色々と頼られると、余計な厄介ごとが来てしまうので、それを避けて、とにかく真実に仏道を学べ、という話でした。もちろん、その裏には、先に挙げた無住が指摘したような「利益を受け」云々という問題もあると見るべきでしょう。

さておき、無住が問題にしているのは、徳を隠さない人の問題点です。僅かでも何かに長じたと思い込むと、それをもって世間に訴え、そして、自分の利益になることに貪欲となり、その中では他の僧を貶したりするというのです。これは大きな問題です。以前も指摘したことですが、これまでも、「他の僧侶の不持戒が問題だ」と声高に貶す人がいて、拙僧はそれを聞きつつ、「であれば、貴師は『不自賛毀他戒』について、どうお考えか?」と聞きたくて仕方なかったわけです。

結局、自分は正しい状態にあって、正しくない人を貶す、これが一番やってはならないことです。拙僧の口癖ですが、「正義は悪よりも悪である」ということです。理由は、「正義は善ではない場合もあるにも関わらず、悪ではないから自ら改める機会を見出すことが出来ない」という状態だからです。悪はまだ、「改善」の余地があります。ですが、正義はそれすらもないのです。人として、果たしてどちらが信用できるのでしょうか。

ここで無住が問題にしている、「内心・外見は清らか」という人が、隠徳の人であれば良いのですが、調子に乗って「利益を追求」し出すと、目も当てられません。声聞乗の、自分だけが良い、という人であって、菩薩広大の行では無いのです。正義が調子に乗っているということです。この箇所、無住は「古徳の釈」としていますが、典拠は元暁『持犯要記』のようです。正直、無住の指摘はその「取意」というべき状況ですが、原文は以下の通りです。

而も此の人、亦たまさに分別して、若し独り浄らかなるに由って、諸の世人をして普く諸僧を福田に非ずと謂い、利養尊重して偏って己に帰せしめる者は、声聞自度の心戒に順ずれども、而も菩薩広大の心戒に逆く。
    元暁『持犯要記』、『大正蔵』巻45・918b

なお、ここまで述べると、であれば、ただ悪であれば良いとのみ思う人もいるかも知れませんが、無住の言葉を借りれば、そういう誤解をすることもまた、許されていません。あくまでも、自分の反省として、後半部分に目を向ける必要があります。それは、「在家の悪人は人の師とはならず、自ら悪道に堕ちるだけである。出家が非法を行えば、多くの人に悪を教え、学ばせることになる」という大きなリスク、つまり、仏教を専門的に学び、行う立場にある出家は、本人にその気は無くても、社会の中で一種の権威化をする可能性があることを、自分の心に銘記すべきだということです。それを忘れると、ひたすらに社会も悪くなる可能性があるということです。この文脈は、そう解釈すべきでしょう。

ただし、ここで悩ましいのは、日本の第二次大戦後は、在家であっても人の師気取りの人が増えてきた、ということです。合掌

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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