以前から良く、周囲の方々から聞かされていたのは、拙僧が所属する「曹洞宗」について、ウチの田舎の方だと「ソウドウシュウ」と濁って呼称される場合があって(一応、正式には「ソウトウシュウ」と濁らないで呼称されるべき)、しかもそれは騒動ばかり起こすから「騒動宗」というあだ名を兼ねている、といわれたことがある。
まぁ、世間の人が仰ることだからなぁ、と思いつつも、これがいつ頃からいわれているのか気になっていた。それで、関連する文献を見出したので、簡潔に紹介してみたい。
公が内務大臣として最も手を焼いた事件の一つに、曹洞宗紛擾問題がある。この問題は曹洞宗の両本山である越前の永平寺と能登の總持寺との間に久しく結んで解けなかつた確執の爆発に外ならぬが、数年に亘り同宗の上下を挙げて紛争に狂奔し、世人をして曹洞宗は騒動宗なりとまで痛罵せしめた宗教界の不祥事件であつた。
井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』第四巻(1933〜34年刊行)、357〜358頁
これは、長州閥の政治家で外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任した井上馨(1836〜1915)の伝記に見える一節である。ここでいわれている「曹洞宗紛擾問題」とは、宗門内では「能山分離独立運動」(明治25〜27年)と呼称される一件で、両大本山の長年の確執から端を発し、宗門内に存在した總持寺の分離独立を願う勢力の建言を、当時の貫首(かつ、曹洞宗管長)であられた畔上楳仙禅師が受諾する形で発生した。
この問題は、両大本山及びその貫首が直接にその権力を行使しつつ争ったところに、それまでのただのケンカのような状況とは異なる重要な点がある。そして、結果的にこの分離運動は、井上と同じ長州閥の三浦梧楼(陸軍中将)の仲裁によって終結し、両大本山は盟約を結び直して、現状に到る。三浦は先の引用文に見るように、井上の指示を受け、その仲裁を買って出たと思われる。また、この経緯については、先の『井上公伝』のみならず、三浦の『観樹将軍囘顧録』(政教社・1925年)でも詳しく挙げる。なお、井上はこの時、内務大臣であり、当時の内務省には社寺課があったことから分かるように、宗教団体の問題は同省に於いて扱われるものであった。この一件、また当ブログでも何かの折りに論じることがあると思う。
さて、話を戻すが、先の引用文に、「曹洞宗は騒動宗なり」という一節が見える。しかも世人から痛罵されたものとして見えるから、世間一般にも、両大本山の紛擾の醜聞が聞こえ、揶揄するかの如く「騒動宗」と呼称された状況が、容易に想像される。敢えて明治期の政治家の「公伝」に引かれるほどだから、当時余程にこの一件が世間に於いて論じられたのだろう。
実際、この紛擾は国会でも採り上げられ、当時の報道でもそれなりに大きな扱いであったとは聞く。よって、その辺が上手く参照できれば、「騒動宗」についての更に古い典拠も見つかるかもしれないが、今の段階では未見のため、これ以上を論じる状況に無い。
それにしても、「騒動宗」とは良く付けたものだと思うけれども、付けられた我々からすれば、この痛罵を転じて、「騒動宗」ならぬ「僧堂宗」として励みたいものである。「僧堂」とはまさに、三宝が一に会同する場所であり、我々僧侶にしてみれば、坐禅を中心とした修行生活の根幹となる場所を指す。つまりは、「僧堂を宗(拠り所)」にするということは、坐禅三昧に日夜過ごすことを意味しているのであって、それであれば、確かに「曹洞宗」という正規の名称よりも我々の本質に近い呼称となる。
是非、そうありたいものである。
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まぁ、世間の人が仰ることだからなぁ、と思いつつも、これがいつ頃からいわれているのか気になっていた。それで、関連する文献を見出したので、簡潔に紹介してみたい。
公が内務大臣として最も手を焼いた事件の一つに、曹洞宗紛擾問題がある。この問題は曹洞宗の両本山である越前の永平寺と能登の總持寺との間に久しく結んで解けなかつた確執の爆発に外ならぬが、数年に亘り同宗の上下を挙げて紛争に狂奔し、世人をして曹洞宗は騒動宗なりとまで痛罵せしめた宗教界の不祥事件であつた。
井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』第四巻(1933〜34年刊行)、357〜358頁
これは、長州閥の政治家で外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任した井上馨(1836〜1915)の伝記に見える一節である。ここでいわれている「曹洞宗紛擾問題」とは、宗門内では「能山分離独立運動」(明治25〜27年)と呼称される一件で、両大本山の長年の確執から端を発し、宗門内に存在した總持寺の分離独立を願う勢力の建言を、当時の貫首(かつ、曹洞宗管長)であられた畔上楳仙禅師が受諾する形で発生した。
この問題は、両大本山及びその貫首が直接にその権力を行使しつつ争ったところに、それまでのただのケンカのような状況とは異なる重要な点がある。そして、結果的にこの分離運動は、井上と同じ長州閥の三浦梧楼(陸軍中将)の仲裁によって終結し、両大本山は盟約を結び直して、現状に到る。三浦は先の引用文に見るように、井上の指示を受け、その仲裁を買って出たと思われる。また、この経緯については、先の『井上公伝』のみならず、三浦の『観樹将軍囘顧録』(政教社・1925年)でも詳しく挙げる。なお、井上はこの時、内務大臣であり、当時の内務省には社寺課があったことから分かるように、宗教団体の問題は同省に於いて扱われるものであった。この一件、また当ブログでも何かの折りに論じることがあると思う。
さて、話を戻すが、先の引用文に、「曹洞宗は騒動宗なり」という一節が見える。しかも世人から痛罵されたものとして見えるから、世間一般にも、両大本山の紛擾の醜聞が聞こえ、揶揄するかの如く「騒動宗」と呼称された状況が、容易に想像される。敢えて明治期の政治家の「公伝」に引かれるほどだから、当時余程にこの一件が世間に於いて論じられたのだろう。
実際、この紛擾は国会でも採り上げられ、当時の報道でもそれなりに大きな扱いであったとは聞く。よって、その辺が上手く参照できれば、「騒動宗」についての更に古い典拠も見つかるかもしれないが、今の段階では未見のため、これ以上を論じる状況に無い。
それにしても、「騒動宗」とは良く付けたものだと思うけれども、付けられた我々からすれば、この痛罵を転じて、「騒動宗」ならぬ「僧堂宗」として励みたいものである。「僧堂」とはまさに、三宝が一に会同する場所であり、我々僧侶にしてみれば、坐禅を中心とした修行生活の根幹となる場所を指す。つまりは、「僧堂を宗(拠り所)」にするということは、坐禅三昧に日夜過ごすことを意味しているのであって、それであれば、確かに「曹洞宗」という正規の名称よりも我々の本質に近い呼称となる。
是非、そうありたいものである。
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