以前、【「モーニング娘。’14」が東京・増上寺でシングル曲のヒット祈願】という記事で、モーニング娘。’14のリーダーである道重さゆみの先祖(高祖父の実弟)に、浄土宗大本山増上寺の第79代法主・道重信教上人(1856〜1934)がいるということを書いた。その後、色々と調べていたら、この道重上人は、当時、「今一休」と呼ばれるほどの優れた仏教者・教化者であることを知り、また、残された法話が書籍になっていることも知った。
その上で、『道重信教法話集』(名著出版・1983年)を読んでいたところ、非常に興味深い一節を見出したので、ご紹介したいと思う。
教化連盟
曹洞宗の大本山鶴見の總持寺と、浄土宗の大本山芝増上寺との間に、教化連盟が成立して、其の記念の交換法話が大正十四年八月二十二日増上寺大殿に於て第一回を、同月三十日に鶴見總持寺の大本堂に於て、其の第二回を開催された。
由来自力教とせられてある禅宗と、他力の本願を以て往生の秘訣としてをる浄土宗とが、社会教化の実蹟を挙げんとする大目的の為めに、伝統的因襲の殻を排除して、斯の種の企ての実現を見るに至つたことは、一に両本山貫首の大英断に出でたものであつて、日本仏教の伝導史上に一新生面が劃されたものであつた。
「普済法話集」第十四講奥付、『道重信教法話集』438頁
引用するに当たっては、漢字や句読点などを適宜改めている。
さて、この一件なのだが、どうも曹洞宗の当局には大した資料は見えず、もしかすると總持寺にはあるかもしれないが、現状そこまで調べていない。我々の『曹洞宗全書』には「年表」という一巻があって、開宗以来、昭和初期までの情報は、それこそ分かる限り年月日単位で記載され、今でも我々が参照すべき最も詳細な内容といえる。それで、上記引用文にある「大正十四年」を確認したのだが、この「教化連盟」の一件は、どこにも記載されていなかった。無論、この一件がウソだったなんていう疑念は微塵も抱いていない。おそらく、当時の仏教系新聞を見れば書いてあるのだろう。調べてないけど。
それで、この連盟は、増上寺・總持寺という両本山の貫首の大英断があって成立したという。
大正14年というと、西暦1925年となるわけだが、この時増上寺の貫首は道重上人だったようだ。まぁ、だからこそ上人の法話集にこの一件が載っているわけだが、總持寺の側はというと、能登から鶴見への御移転を挙行された独住第四世・石川素童禅師は大正9年に御遷化されており、この時代は第五世・新井石禅禅師であった。
あぁ、だとすると、新井禅師の全集などに、この一件について書いているのかもしれない。で、こちらもまだ未確認。資料が手元に無いっていうのは、ちょっと厳しいな(汗)
何故ならば、道重上人の法話集には、上記のことしか書いていないので、誰がどういう内容の法話を行ったかが分からない。何時まで続いたのかも興味がある。よって、新井禅師の全集にこの一件が書いていれば、そこから分かることもあるかもしれないな、なんて期待してみたのである。まぁ、徒労に終わる可能性もあるのだが・・・
今でも、「京浜四大本山(増上寺・池上本門寺・川崎大師・總持寺)」なんていう括りもあるのだが、その奔りみたいな一件であった。
今日は、この一件の紹介だけさせていただいて、続きの調査が終わってから、更なる記事を書こうと思う。また、いつもながらで恐縮なのだが、この一件についてご存じの方がおられれば、情報を下さるようお願い申し上げたいm(_ _)m
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教化連盟
曹洞宗の大本山鶴見の總持寺と、浄土宗の大本山芝増上寺との間に、教化連盟が成立して、其の記念の交換法話が大正十四年八月二十二日増上寺大殿に於て第一回を、同月三十日に鶴見總持寺の大本堂に於て、其の第二回を開催された。
由来自力教とせられてある禅宗と、他力の本願を以て往生の秘訣としてをる浄土宗とが、社会教化の実蹟を挙げんとする大目的の為めに、伝統的因襲の殻を排除して、斯の種の企ての実現を見るに至つたことは、一に両本山貫首の大英断に出でたものであつて、日本仏教の伝導史上に一新生面が劃されたものであつた。
「普済法話集」第十四講奥付、『道重信教法話集』438頁
引用するに当たっては、漢字や句読点などを適宜改めている。
さて、この一件なのだが、どうも曹洞宗の当局には大した資料は見えず、もしかすると總持寺にはあるかもしれないが、現状そこまで調べていない。我々の『曹洞宗全書』には「年表」という一巻があって、開宗以来、昭和初期までの情報は、それこそ分かる限り年月日単位で記載され、今でも我々が参照すべき最も詳細な内容といえる。それで、上記引用文にある「大正十四年」を確認したのだが、この「教化連盟」の一件は、どこにも記載されていなかった。無論、この一件がウソだったなんていう疑念は微塵も抱いていない。おそらく、当時の仏教系新聞を見れば書いてあるのだろう。調べてないけど。
それで、この連盟は、増上寺・總持寺という両本山の貫首の大英断があって成立したという。
大正14年というと、西暦1925年となるわけだが、この時増上寺の貫首は道重上人だったようだ。まぁ、だからこそ上人の法話集にこの一件が載っているわけだが、總持寺の側はというと、能登から鶴見への御移転を挙行された独住第四世・石川素童禅師は大正9年に御遷化されており、この時代は第五世・新井石禅禅師であった。
あぁ、だとすると、新井禅師の全集などに、この一件について書いているのかもしれない。で、こちらもまだ未確認。資料が手元に無いっていうのは、ちょっと厳しいな(汗)
何故ならば、道重上人の法話集には、上記のことしか書いていないので、誰がどういう内容の法話を行ったかが分からない。何時まで続いたのかも興味がある。よって、新井禅師の全集にこの一件が書いていれば、そこから分かることもあるかもしれないな、なんて期待してみたのである。まぁ、徒労に終わる可能性もあるのだが・・・
今でも、「京浜四大本山(増上寺・池上本門寺・川崎大師・總持寺)」なんていう括りもあるのだが、その奔りみたいな一件であった。
今日は、この一件の紹介だけさせていただいて、続きの調査が終わってから、更なる記事を書こうと思う。また、いつもながらで恐縮なのだが、この一件についてご存じの方がおられれば、情報を下さるようお願い申し上げたいm(_ _)m
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