既に、諸仏説に見える様々な問題の各論に入っている富永仲基『出定後語』ですが、今日採り上げるのは、上巻の「涅槃・華厳の二喩 第七」になります。直訳をすれば、『涅槃経』という大乗教理学上最後の仏説と、『華厳経』という、今度は反対に最初の仏説に見える譬喩を元に、富永は当時の仏教経論に関するカテゴリーに疑問を呈しています。前回のも同様ですが、要するに富永の大乗非仏説とは、単純に大乗仏教が仏説では無い、ということを明らかにしただけではなくて、釈尊自身の口説がどこまでなのか?という射程を計る営みでもあります。同時に、後代の仏教者が、如何に牽強付会なる説を展開したかも記述しています。
そういう中で、今回問題になる二経の譬喩ですけれども、それぞれ以下の通りです。
涅槃経聖行品に曰く、「譬へば牛より乳を出だし、乳より酪を出だし、酪より生酥を出だし、生酥より熟酥を出だし、熟酥より醍醐を出だすがごとし。醍醐は最も上なり。仏もまたかくのごとし。仏より十二部経を出だし、十二部経より修多羅を出だし、修多羅より方等経を出だし、方等経より般若波羅蜜を出だし、般若波羅蜜より大涅槃を出だすこと、なほ醍醐のごとし」と。これを仏性に喩ふ。この喩へは、もと無垢蔵王が涅槃の教への最も勝れたるを嘆ずるによつて、仏乃ち印可し、これを喩ふるに五味をもつてして、もつて、その最も濃やかなるを示すなり。
『出定後語』「涅槃・華厳の二喩 第七」、岩波日本思想体系43、35〜36頁
最初に引いているのは、『大般涅槃経』巻十四「聖行品第七之四」からで、出典は『大正蔵』であれば巻12・449aになります。なお、この「聖行品」の一節について富永は、一切の経典の中に、内容の濃淡が異なる様々な経典があることを示すと考えています。また、富永は『華厳経』からも或る文脈を引いています。
また華厳経性起品に曰く、「譬へば、日の出でてまづ諸大山王を照らし、次に大山を照らし、次に金剛宝山を照らし、しかしてのち、普く大地を照らすがごとし。日光はこの念をなさず。ただ地に高下あり。故に照らすに先後あり。如来もまたしかり。智慧の日輪は、常に光明を放つ。まづ菩薩山王を照らし、常に縁覚を照らし、次に善根の衆生を照らす。しかして後、ことごとく一切衆生を照らす。如来、もとこの念をなさず。ただ衆生の善根不同、故にこの種種の差別あり」と。この喩へは、もと謂ふ、如来の所説はもとより浅深なければ、ただその初義最第一、菩薩・衆以上は、実にこれが化を被る。これより以下、縁覚・声聞も分に随ひて領承し、みなおのおのその徳をなす。しかるに、その最高の者を求むるに、もとより初説を出でず。最妙の者は、もとより華厳を出でず。これ乃ち経の本旨なり。
同上、岩波日本思想体系43、36〜37頁
ここで引用されているのは、『六十華厳』巻三十四「宝王如来性起品第三十二之二」からで、出典は『大正蔵』であれば巻9・616bになります。この文意については、富永がいう通り、如来の教説というのは、如来の側には区別の意図は無いけれども、受け取り側の違いで、その功徳の受け取り方法が違っている、ということです。
つまり、富永がここで言いたいのは、両者ともに、経典というのは全て仏説であるとするならば、そこに教義の濃淡の違いや、受け取り側の違いがあるかもしれないけれども、本来の内容はただ一つ、ということをいいたいわけです。ところが、富永は続けて、そのように受け取らなかった場合があるとし、それを批判しています。
まず、前者の『涅槃経』に関連した文脈です。
しかるに後世の学者、みな誤解して云く、「十二部はこれ華厳、修多羅はこれ阿含、方等はこれ維摩・思益等」と。もつて、これを天台大師の五教に合はす。十二部・修多羅は、説すでに上(註・前回の記事など)に見ゆ。これ何ぞ華厳・阿含に限らん。かつ、乳は酪より粗にして、華厳は則ち鹿苑より治し。これ全く合はず。かつ原経の旨を、五味の濃淡、教への最も勝れたるに喩へて、かれは則ち、もつてその五教に合はす。故に云く、「これを下劣の根性に取る」と。あるいは云く、「これを相生の次第に取る」と。また、その義を失せり。
同上、岩波日本思想体系43、36頁
要するに、本来関係が無いはずの、「五味の喩え」と、天台智?が説いた「五時八教」説を合わせてしまったとしているのです。なお、後半で引用されているのは、『天台四教儀(上)』になります。だいたい、天台宗では「五味」と「五時」を会通させるのは、常套手段でしたので、ここで富永が冷静に「関係ないでしょ」と述べたのは、それなりに大きな意義があります。
続いて、後者の『華厳経』に関連した文脈です。
しかるに後世の学者、また誤解して云く、「華厳は第一照、阿含は第二照、方等は第三照、法華・涅槃は第四・第五照」と。またもつて、これを天台大師の五教に合はす。それ華厳の第一照たる、もとより弁を待たず。ただ、阿含の最も愚法にして、第二照となり、また法華・涅槃の最妙の者にして、いたづらに第四・第五照となるは、これ甚だ円満ならず。ここに知る、この喩へもまた合はざることを。かつ、経の所列にはただ四照ありて、かれは則ちこれを五時に合はするも、またその義を失せり。
同上、岩波日本思想体系43、37頁
これについては、智?の『法華玄義(上)』などにも見える文脈で、やっぱり天台宗の常套解釈だったようですが、これについても、確かに富永の言う通り、天台宗の解釈は無理があるような気がします。結局、富永のやることって、各宗派などで強引に構築した教理体系(教学・宗学)の矛盾を冷静に突っ込むことから始めているわけです。まぁ、富永自身の説にも、ちょっと強引なところがあって、その辺は時代的限界なのでしょうけれども、見ていると面白いです。
そして、富永は次のような結論を出します。
要するにこの二喩、涅槃は則ちこれを終りに託して、もつて醍醐の最も醇なるを推し、華厳は則ちこれを始めに託して、もつて日のまづ山王を照らすを崇ぶ。順逆喩へを設け、おのおのその教へを妙にするも、その実は胡越の異なり。天台大師、この二喩を合はせてもつてその五教を証する者も、またあにこれを知らざらんや。〈中略〉故に、かりに撮つて、もつてその趣きをなせり。もつてその説を証するにはあらざるなり。あに後世の学者の、固くこれを執つて、五時は全くこの二喩に出づとおもへる者のごとく、しからんや。これ則ち、天台大師の本旨なり。またあるいは、後世もつて天台大師を疚ましむる(註・非難する)者も、また非なり。
同上、岩波日本思想体系43、37〜38頁
富永は、天台大師がこれらの『涅槃経』『華厳経』の二喩を以て、自説の「五時八教」説を論じたのは、あくまでも、自説を説明する喩えに用いたのみであって、本来のそれらの譬喩に、その意図があったわけではないとします。ここから、富永はおそらく、「譬喩」ということについて考察を進めようとしているように思われます。その全貌については、まだここでは論じることが出来ませんけれども、譬喩でもって示された内容と、「証明」という事柄についての差異を明確化することによって、文脈自体が持つ「権威性」について言及しているように思われるのです。
権威を得てくると、証明が曖昧で、牽強付会であっても、何となくそれが通ってしまうところがあります。我々の宗派でも、明治時代以降の布教教化の現場には、少なからず見られることです。しかし、冷静に文脈の意図を探っていくと、そこまでのことではない、或いは、権威に眼がくらんだ我々の見間違い、ということも良くあることです。富永は、権威によらず、ただ文脈から考えていくことにより、その実際のところを明らかにしたのであります。まさに、幽霊の正体見たり・・・の世界ですね。なお、この連載も、富永という「幽霊の正体」を見たいと思って続けています。
【参考資料】
・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
そういう中で、今回問題になる二経の譬喩ですけれども、それぞれ以下の通りです。
涅槃経聖行品に曰く、「譬へば牛より乳を出だし、乳より酪を出だし、酪より生酥を出だし、生酥より熟酥を出だし、熟酥より醍醐を出だすがごとし。醍醐は最も上なり。仏もまたかくのごとし。仏より十二部経を出だし、十二部経より修多羅を出だし、修多羅より方等経を出だし、方等経より般若波羅蜜を出だし、般若波羅蜜より大涅槃を出だすこと、なほ醍醐のごとし」と。これを仏性に喩ふ。この喩へは、もと無垢蔵王が涅槃の教への最も勝れたるを嘆ずるによつて、仏乃ち印可し、これを喩ふるに五味をもつてして、もつて、その最も濃やかなるを示すなり。
『出定後語』「涅槃・華厳の二喩 第七」、岩波日本思想体系43、35〜36頁
最初に引いているのは、『大般涅槃経』巻十四「聖行品第七之四」からで、出典は『大正蔵』であれば巻12・449aになります。なお、この「聖行品」の一節について富永は、一切の経典の中に、内容の濃淡が異なる様々な経典があることを示すと考えています。また、富永は『華厳経』からも或る文脈を引いています。
また華厳経性起品に曰く、「譬へば、日の出でてまづ諸大山王を照らし、次に大山を照らし、次に金剛宝山を照らし、しかしてのち、普く大地を照らすがごとし。日光はこの念をなさず。ただ地に高下あり。故に照らすに先後あり。如来もまたしかり。智慧の日輪は、常に光明を放つ。まづ菩薩山王を照らし、常に縁覚を照らし、次に善根の衆生を照らす。しかして後、ことごとく一切衆生を照らす。如来、もとこの念をなさず。ただ衆生の善根不同、故にこの種種の差別あり」と。この喩へは、もと謂ふ、如来の所説はもとより浅深なければ、ただその初義最第一、菩薩・衆以上は、実にこれが化を被る。これより以下、縁覚・声聞も分に随ひて領承し、みなおのおのその徳をなす。しかるに、その最高の者を求むるに、もとより初説を出でず。最妙の者は、もとより華厳を出でず。これ乃ち経の本旨なり。
同上、岩波日本思想体系43、36〜37頁
ここで引用されているのは、『六十華厳』巻三十四「宝王如来性起品第三十二之二」からで、出典は『大正蔵』であれば巻9・616bになります。この文意については、富永がいう通り、如来の教説というのは、如来の側には区別の意図は無いけれども、受け取り側の違いで、その功徳の受け取り方法が違っている、ということです。
つまり、富永がここで言いたいのは、両者ともに、経典というのは全て仏説であるとするならば、そこに教義の濃淡の違いや、受け取り側の違いがあるかもしれないけれども、本来の内容はただ一つ、ということをいいたいわけです。ところが、富永は続けて、そのように受け取らなかった場合があるとし、それを批判しています。
まず、前者の『涅槃経』に関連した文脈です。
しかるに後世の学者、みな誤解して云く、「十二部はこれ華厳、修多羅はこれ阿含、方等はこれ維摩・思益等」と。もつて、これを天台大師の五教に合はす。十二部・修多羅は、説すでに上(註・前回の記事など)に見ゆ。これ何ぞ華厳・阿含に限らん。かつ、乳は酪より粗にして、華厳は則ち鹿苑より治し。これ全く合はず。かつ原経の旨を、五味の濃淡、教への最も勝れたるに喩へて、かれは則ち、もつてその五教に合はす。故に云く、「これを下劣の根性に取る」と。あるいは云く、「これを相生の次第に取る」と。また、その義を失せり。
同上、岩波日本思想体系43、36頁
要するに、本来関係が無いはずの、「五味の喩え」と、天台智?が説いた「五時八教」説を合わせてしまったとしているのです。なお、後半で引用されているのは、『天台四教儀(上)』になります。だいたい、天台宗では「五味」と「五時」を会通させるのは、常套手段でしたので、ここで富永が冷静に「関係ないでしょ」と述べたのは、それなりに大きな意義があります。
続いて、後者の『華厳経』に関連した文脈です。
しかるに後世の学者、また誤解して云く、「華厳は第一照、阿含は第二照、方等は第三照、法華・涅槃は第四・第五照」と。またもつて、これを天台大師の五教に合はす。それ華厳の第一照たる、もとより弁を待たず。ただ、阿含の最も愚法にして、第二照となり、また法華・涅槃の最妙の者にして、いたづらに第四・第五照となるは、これ甚だ円満ならず。ここに知る、この喩へもまた合はざることを。かつ、経の所列にはただ四照ありて、かれは則ちこれを五時に合はするも、またその義を失せり。
同上、岩波日本思想体系43、37頁
これについては、智?の『法華玄義(上)』などにも見える文脈で、やっぱり天台宗の常套解釈だったようですが、これについても、確かに富永の言う通り、天台宗の解釈は無理があるような気がします。結局、富永のやることって、各宗派などで強引に構築した教理体系(教学・宗学)の矛盾を冷静に突っ込むことから始めているわけです。まぁ、富永自身の説にも、ちょっと強引なところがあって、その辺は時代的限界なのでしょうけれども、見ていると面白いです。
そして、富永は次のような結論を出します。
要するにこの二喩、涅槃は則ちこれを終りに託して、もつて醍醐の最も醇なるを推し、華厳は則ちこれを始めに託して、もつて日のまづ山王を照らすを崇ぶ。順逆喩へを設け、おのおのその教へを妙にするも、その実は胡越の異なり。天台大師、この二喩を合はせてもつてその五教を証する者も、またあにこれを知らざらんや。〈中略〉故に、かりに撮つて、もつてその趣きをなせり。もつてその説を証するにはあらざるなり。あに後世の学者の、固くこれを執つて、五時は全くこの二喩に出づとおもへる者のごとく、しからんや。これ則ち、天台大師の本旨なり。またあるいは、後世もつて天台大師を疚ましむる(註・非難する)者も、また非なり。
同上、岩波日本思想体系43、37〜38頁
富永は、天台大師がこれらの『涅槃経』『華厳経』の二喩を以て、自説の「五時八教」説を論じたのは、あくまでも、自説を説明する喩えに用いたのみであって、本来のそれらの譬喩に、その意図があったわけではないとします。ここから、富永はおそらく、「譬喩」ということについて考察を進めようとしているように思われます。その全貌については、まだここでは論じることが出来ませんけれども、譬喩でもって示された内容と、「証明」という事柄についての差異を明確化することによって、文脈自体が持つ「権威性」について言及しているように思われるのです。
権威を得てくると、証明が曖昧で、牽強付会であっても、何となくそれが通ってしまうところがあります。我々の宗派でも、明治時代以降の布教教化の現場には、少なからず見られることです。しかし、冷静に文脈の意図を探っていくと、そこまでのことではない、或いは、権威に眼がくらんだ我々の見間違い、ということも良くあることです。富永は、権威によらず、ただ文脈から考えていくことにより、その実際のところを明らかにしたのであります。まさに、幽霊の正体見たり・・・の世界ですね。なお、この連載も、富永という「幽霊の正体」を見たいと思って続けています。
【参考資料】
・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、
