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第九不瞋恚戒(『梵網菩薩戒経』参究:十重禁戒9)

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今日は「十重禁戒」の9回目です。当連載では、一応常に、「十善戒」との対応も見てきましたが、久しぶりに出て来ました。

華厳経等に、一念瞋恚の火、無量劫に功徳法財を焼亡すと説り。世の惑ふかき者は、一朝のいかりにその身をわすれて、其親に及すあり。
    慈雲尊者飲光『人となる道』「第九不瞋恚」

この『華厳経』とされる一節ですが、慈雲尊者は幾度かこれを引用するものの、実際のところ、最近の検索ソフトなどを使っても、この箇所に到るのは極めて難解です。先行研究では、これを『六波羅蜜経』に典拠を求めているようですが、それであってもだいぶ遠いですけど、確かにその辺に定めたい気持ちは分かります。なお、『人となる道』へのパクリ疑惑すらある寂室堅光『十善戒法語』では、これを以下のように示しています。

華厳経にも、一念の瞋火、無量劫の功徳を焼と説き玉ふ。
    「第九不瞋恚」

・・・若干違いますが、ほぼ言っていることは同じになります。ただ、この文章であればむしろ「典拠」が明らかになってきます。これは、中国宋代の天台僧・四明知礼尊者の教行を録した文献である『四明尊者教行録』の『菩薩戒儀』に入っている「略説戒相」の「不瞋恚戒」に関する説示でしょう。同書には「一念の瞋火、能く無量の功徳を焼く」とあります。無論、四明知礼のこの文脈が、更に『華厳経』などに求められる可能性がありますが、曹洞宗系の寂室が引いたのは、こちらでしょう。何故、慈雲尊者と同じく『華厳経』としているのかは、「大人の事情」も考えるべきなのかもしれませんが(汗)

なお、上記2つの引用文に見るように、瞋恚によって「従来得た功徳も、これから得るだろう功徳」も全て失うぞ、という警告は一般的だったようです。それも、仏典に限りません。慈雲尊者が引いた「一朝のいかりに……」は、孔子『論語』からの引用です。そして、当然に道元禅師の直弟子達が行った『梵網経』、もしくは「仏祖正伝菩薩戒」への『教授戒文』に付した註釈にも、以下のように見えます。

瞋恚に取て已前に修せし善を失のみにあらず、未生の善をも失ふ。菩薩は慈悲のみあり、四勝法を以て人を化す。但、降伏と云時暫瞋事も有。是は懈怠の事を誡む。面は忿怒の姿なれども、慈悲より起こる事故、世間の瞋恚にあらず。
    経豪禅師梵網経略抄

「四勝法」は「四摂法」の別表記であって、同じ意味です。よって、経豪禅師の提唱に依れば、菩薩は慈悲のみあって、その慈悲に基づく「四摂法(布施・愛語・同事・利行)」の実践によって、衆生を救済するということから、譬え、怒りを抱いているような人がいたとしても、その「瞋恚の真意」は十二分に確認されるべきだといえましょう。つまり、以下のような天童如浄禅師の故実などを参照すべきなのです。

 先師天童浄和尚住持の時、僧堂にて衆僧坐禅の時、眠リを警むるに履を以て是レを打チ謗言呵嘖せしかども、僧皆打タルる事を喜び、讃嘆しき。
 ある時、また上堂の次でには、常に云ク、「我レ已に老後の今は、衆を辞し、庵に住して老を扶ケて居るべけれども、衆の知識として各々の迷ヒを破り、道を助けんがために住持人たり。是レに因ツてあるイは呵嘖の言を出し、竹篦打擲等の事を行ず。是レ頗る恐レあり。然れども、仏に代ツて化儀ヲ揚グル式なり。諸兄弟、慈悲をもてこれを許し給へ。」と言へば、衆僧流涕しき。
 是ノごとキ心を以てこそ、衆をも接し化をも宣ブべけれ。住持長老なればとて猥りに衆を領じ、我ガ物に思うて呵嘖するは非なり。況ンヤそノ人にあらずして人の短を謂ヒ、他の非を謗るは非なり。能々用心すべきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-5

これは、法嗣である道元禅師が、如浄禅師の道業を讃歎して、弟子達に紹介された一件です。如浄禅師は、僧堂坐禅の際に、ちょっとでも眠る僧がいると、徹底して起こしたそうです。その時には、「履(クツ)」でもって殴り、言葉で詰るなどした、徹底したスパルタ教育であったとの事。おそらくは、実際に指導を受けた僧侶にとっては、不動明王の如くの忿怒に見えたことでしょう。ところが、如浄禅師、或る時には、ここで紹介されている上堂語のように、自らの行いが、「善知識として各々の迷いを破り、道の成就を助ける住持人の勤め」であるといったのです。しかも、「仏に代わって化儀を揚げる式」であるともいいました。その「瞋恚の真意」を聞いた修行僧は涙を流し、如浄禅師の指導を誉め称えたのです。如浄禅師御自身が仰ったことのようですが(『正法眼蔵』「行持(下)」巻参照)、当時の宋朝禅には、「各自理会」とのみいい、指導をしようとしなかった大寺院の住持もいたようです。しかし、それでは迷いも離れず、本来禅宗が迷いについて、徹底的に取り扱う宗風(あくまで「取り扱う」のであって、「除く」とは限らない)を持っていたことを考えると、余りに杜撰な退転ぶりに、如浄禅師は怒るのです。この怒りも、まさに菩薩の怒りです。

では、『梵網経』の本文では、「瞋恚」について、どのように指摘しているのでしょうか。

なんじ仏子、自ら瞋り人を教えて瞋らしめれば、瞋の因・瞋の縁・瞋の法・瞋の業あるべし。而も菩薩は応に一切衆生の中の善根無諍の事を生ぜしめ、常に悲心を生ぜしむべし。而るに、反って一切衆生の中に於いて、乃至、非衆生の中に於いて、悪口を以て罵辱に加うるに手打、及び刀杖を以てして意、猶お息まず、前の人、悔を求めて善言懺謝すれども、猶お瞋りて解かざるものは、是れ菩薩の波羅夷罪なり。
    第九瞋不受謝戒

この一分を確認しますと、如浄禅師の振るまいが、如何にこの「菩薩の波羅夷罪」のギリギリのところを進んでいたかが分かります。大乗菩薩戒の根本聖典である『梵網経』では、悪口でもって衆生を痛罵し、陵辱し、更に手で打ち、刀や杖でもって殴ることは、問題外の悪行であったことは疑い無いのです。しかし、問題は、それが「何を理由に行われるか?」であって、ここで「波羅夷罪」に繋がるのは、悔やみ、懺謝しても、許さない態度そのものなのです。よって、如浄禅師は修行僧の迷いを破り、眠りから起こすという「明確な菩薩行」の基準を元に行われていました。しかし、自分が他人の上に立ち、相手を支配下に置きたいという「欲望・煩悩」を元に行われた場合、全ては、堕地獄の因縁となるのです。拙僧は、仏道を学び初めて以来、このことを疑ったことはありません。

此仏戒の中にて名を立るに不瞋恚と云へども、「位同大覚位、真是諸仏子」なれば、仏位にては何様に持すべきか。「菩薩戒を受け菩薩の名を得れば、常に慈悲心・孝順心を生ずべし」云々。衆生心は慈悲心なり、孝順心なり。一念とも一心とも云べし。初一念の時、先衆生を哀む心、是孝順心なり。念に於いて一二念有ると雖も、境因に随って一念二念とかぞうべきに非ず。仏心と云時、一念を立つと云へども、一二員に非ず、一念法界と云故に常住の慈悲心一心也、身心一也。華厳に唯心ととき、法華に実相ととき、涅槃に常位ととく。其詞は不同なれども、此心なるゆへに、是等の心ををこすとき、やがて仏也。仍って位、大覚の位に同じうする也。
    『梵網経略抄』

「不瞋恚」の具体的実践の様相は、結局は「慈悲心」を持つことによる菩薩行ということになります。しかし、この時の「慈悲心」は、日常的なちょっとした優しさに顕れてくるわけですが、その優しさとして考えられるとき、我々には「慈悲心」が、畢竟「心」の問題を扱っていることを忘れてはなりません。この「心」とは、仏心であり一心であり、結局は自他を脱落した一大法界そのものを、我々は菩薩の慈悲心の根源としているのです。よって、「分け隔てなく」という表現をされる事象、「あるがまま」という表現をされる事象、それらは慈悲心の表れです。拙僧、「涅槃の常位」について、不勉強でしたが、今回のこの記事で、改めて学ぶ縁を得ました。それは、別の機会に、単独の記事にしたいと思います。また、「菩薩戒を受け菩薩の名を得れば」とあるのは、「戒名」授与の典拠です。

ところで、『梵網経』の経文には「罵辱」と出ていることから分かるように、この「瞋恚」の対義語は六波羅蜜の一にも数えられている「忍辱」になります。怒るのではなくて、忍ぶことが肝心です。なお、「忍ぶ」という事を考えたとき、我々は仏陀釈尊が、中国訳で「能忍」と呼ばれていたことを忘れてはなりません。

六波羅蜜の中には忍辱ハラ蜜と云。此世界をば忍界と云。教主の仏の御名をば、能忍と云。此御名の内に十号をも具足すべし。三乗の中、菩薩乗には忍辱ハラ蜜あり。忍の功徳の究竟する形は化衆生也。仏も初行とたて、菩薩にも本意なり。自他能所に非ざるを「化一切衆生皆令入仏道」と云。忍辱の果位なるべし。
    『梵網経略抄』

「化一切衆生皆令入仏道」とは、かの『妙法蓮華経』「方便品」でいわれることであり、道元禅師も『正法眼蔵』「諸法実相」巻などで、インドにて仏法をひたすらに説法し続けた釈尊の道業を讃歎するために、この一節を引用されますけれども、道元禅師の直弟子の1人であったともいう経豪禅師は、「忍界」に生まれた釈尊、つまり「願生此娑婆国土」し来たった教主の説法を、「方便品」の一節を以て簡潔且つ完結に表現されたのです。娑婆世界の中で、忍びに忍んで一切衆生を度さんと努力された御方、仏陀釈尊こそ「能忍」だというわけです。

瞋恚不瞋恚の表裏は善悪の二法也。我等今、三悪道の戸を開て三菩提の門を閉事は、只此戒を犯故也。然者尤瞋恚を止て忍辱を行ずべし。
    『梵網経略抄』

三悪道」というのは、悪事を行った結果流転する世界であるとされています。別名は「三途」、よく「三途の川」なんていいますが、これはまさに、悪事の結果渡るべき場所といえるのです。死後、もしその「岸」に着いてしまったなら、覚悟した方が良いでしょう(とはいえ、道元禅師は「三帰」によって、その因縁は転ぜられるとします)。そして、「三菩提」というのは「阿耨多羅三藐三菩提」の略語です。本来、「三悪道」と「三菩提」とは、対概念では無いのですが、ここでは「三」つながりで、敢えて経豪禅師は対比させたのでしょう。その対比は、至極真っ当です。

凡十重禁戒の中には軽重有るべからずと雖も、殊に守るべきは、此不瞋恚戒也。倩思へば、諸悪の中に瞋恚は兼て用心する事得べからざる悪也。其故は、違縁の境に依て俄到来する悪法なり。自も兼て之を知らず、他も兼て是を知らず、只暫時の間に起物也。故、初一念には瞋恚発すと云とも、第二念には喩へば前人求悔善言懺謝せずと云とも、自も懺謝すべき也。而に善言を聞て猶瞋てとけざるは犯戒なるべし。是以瞋恚不瞋恚にて悪人善人を知るべき也。自余の悪は犯は常分の罪を得のみなり。此瞋恚は衆善を滅し、諸悪を生ずる極悪也。
    『梵網経略抄』

経豪禅師は、以前【第一不殺生戒(『梵網菩薩戒経』参究:十重禁戒1)】でも紹介したように、十重禁戒(十戒)は一戒に収まるので、差別・軽重はないと述べておられます。しかし、転じて、それでももっとも大事なのは「不瞋恚戒」であるとされるのです。何故ならば、他の九戒はそれぞれに応分の罪を得るだけです。しかし、瞋恚は、衆善を滅し、諸悪を生じてしまうのです。「七仏通誡偈」では「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」とはされますが、しかし、瞋恚1つでこの通誡すらも吹き飛んでしまうのです、可怖可怖。

されど、我々は凡夫性を十二分に具えた、忍界に生きる衆生でしかありません。よって、「怒るな」といわれ、その通りに実践出来る人は少ないでしょう。以前、【無住道曉『沙石集』の紹介(9e)】という記事では、或る上人を相手に、「自分は怒った事がありません」とかいっていた或る凡夫の正体が暴露されました。それよりも、最初こそ怒っていても、次には「自ら拳を下ろす」べきであるといえるのです。その冷静さと、念の生滅の迅速さをこそ、我々は重視すべきであるといえます。いや、善念は増長させ、悪念は消滅させるという、「四正断(四正勤)」こそ正しき修行といえましょう。ところで、ここで問われた「善悪」ですが、これまた理解には、一苦労です。

 是に付ても、先師の御師の御詞、殊に信受せられるなり、「誠身心悪なる人は、善ををしふれば善をばいかる、悪を教れば悪をば不瞋」。
 然者、此瞋恚不瞋恚皆共に取るべき所に非ず。悪の上の一双の法なるがゆへに、いかるべきをいかるに非。いかるべからざるをいからざるにあらざるが故、瞋不瞋共に悪法なるべき也。
 然者、不瞋も取るべきに非ず、瞋も又取るべきに非ず、身心悪なる物の為には、善は違縁なるが故に、善は瞋恚となり、悪は違縁にあらざるが故に、悪は不瞋恚となるなり。
 然者、悪人の上の瞋恚不瞋恚は共に取るべからざる道理明也。故は悪を教るをいかり、善を教るを不瞋はいかるべきをいかり、いかるべからざるをいからざるが故に、善人の上の瞋恚不瞋恚は共に善なるべき道理もあるべきなり。
 今、仏祖の家常には甘露の門を開て、進歩退歩するを瞋恚不瞋恚とは習也。
    『梵網経略抄』、下線2箇所は拙僧

冒頭で引用されている「先師の御師の御詞」ですが、これは道元禅師の『正法眼蔵』を受けたものといえるでしょう。

道心をしらざるともがらに、道心をおしふるときは、忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、他人をうらむ。
    「渓声山色」巻

「忠言の逆耳」というのは、良い事を教えてあげたのに、それを逆恨みする事態です(同じことは、『学道用心集』第二則でも説かれます)。とはいえ、この時も常に「何が善いことか?」というのは問われるわけですけれども、されど道元禅師はそれが、「歴代の仏祖の行履」から、伝統的に決まると思っておられたはずです。何故ならば、上記引用文の後には、どのようにして「邪念」を抛捨すべきかを説き、学仏道するときには、正法の心術を得ることが難しいとします。されど、「その心術は仏仏相伝しきたれるものなり」とされるのです。よって、伝統的な文脈に開く事で、我々自身の行いの善悪が決まるのです。それを、端的に経豪禅師は「悪人」「善人」という分け方をしています。悪の上では、瞋恚不瞋恚はともに悪です。しかし、善の上では、瞋恚不瞋恚はともに善です。先ほど述べたような、如浄禅師の振る舞いを忘れるべきではありません。

結局、「甘露の門を開」き、その上で進歩退歩するとき、瞋恚不瞋恚として顕れる「仏祖の家常」があるのです。「甘露の門」とは、当然に慈悲によって垂れられた、教主釈尊の教えに他なりません。その教えを学べば、我々は自ずと「謙虚」になるはずです。人は謙虚であるとき、怒りを抱きません。抱けません。抱きようもありません。何故ならば、怒るべき対象であっても、それは「一念法界」の事実である「遍界我有」であり、「我が物ではないことがない」のです。我が物という時の「我」とは、「仏法の我」でありますので、今この日常的な分別心によって捉えられた「我」ではありません。仏法によって捉えられるから、「遍界我有」なのです。その自他脱落せられた状況での「瞋恚不瞋恚」こそ、慈悲の実践なのです。

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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