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損翁宗益禅師『坐禅箴弁話』(1)

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今日から「臘八摂心」ということもありますので、坐禅に関する記事を一週間短期連載してみたいと思います。

これまでも、連載記事である「或る禅僧の修行日記」で採り上げてきましたので、それなりに名前の浸透が図られたと思いますが、この損翁宗益禅師(1649〜1705)とは、仙台にある泰心院の8世住職として化を振るわれた方です。僧俗ともに参禅の徒は多かったようで、その中でも最大の人を挙げるとすれば曹洞宗が輩出した江戸時代最大の学僧だったといって良い面山瑞方禅師ということになるでしょう。面山禅師は、江戸にて学人を指導していた損翁禅師と意気投合して、損翁禅師が帰仙するのにやや遅れて、同じように仙台に入り、指導を蒙ったのであります。損翁禅師は、遺言として、弟子の面山禅師に「永祖の面を見て、他の面を見ざれ」と指示しており、永祖=道元禅師をひたすらに追慕し、修行するように示したのです。

そして、面山禅師は、自らが損翁禅師の下で見聞きし学んだことを『見聞宝永記』という著作に残されたのですが、それを見ていると、損翁禅師も自ら、ひたすらに道元禅師の古風を慕いながら、その生涯を送られたことが良くわかるわけであります。その損翁禅師には坐禅に関する著作も残り、その名も『永平正法眼蔵坐禅箴損翁和尚弁話(以下、『弁話』と略記)』(『続曹洞宗全書』「注解二」所収本を参照)といいます。宏智禅師の坐禅箴に関する註釈書というか、提唱録のような感じです。色々と、坐禅の境涯を知るには参考になる著作だと思いますので、見ていきましょう。なお、一応で同著は道元禅師の『正法眼蔵』「坐禅箴」巻に対する提唱ということになりますが、本来の同巻の長さもあってか、かなりの長さになりますので、今年の臘八摂心に因んで10回に分けてみていきます(摂心中は、7回のみ掲載)。

 我が門で行じている坐禅というのは、釈迦牟尼如来から迦葉尊者に伝え、それから嫡嫡に正しく伝えて、三十六代目の薬山禅師にまで至るのである。上の方に三十六代辿れば釈迦牟尼如来がいる。これを名付けて、仏々祖々が伝授してきた法門というのである。上には仏も見えないが、下には衆生もないところといえるのだ。これを、今日の坐禅とする。
 この坐禅の理とは、如来が世におられた頃の、諸々の経典・論書にも説かれていないことである。これを喩えていえば、小枝の元には大きな根があるが、大きな根の元には小枝がないようなものである。諸々の経典で説かれるのは、枝のようなものであり、この坐禅は根のようなものである。
 愚かな者がいっているのは「この頃、坐禅修行して、無事であることを得た。なかなか心も安らかで、身も静かになり終わったのだ」と。この言葉は、今時でもいわれることである。これは皆、真実を知らない者の言葉であり、三毒を離れて、清浄になろうと思う学者の言葉ではない。このことを嘆かれて、もったいなくも、仏祖の伝法は絶えてしまったと仰っているのだ。この心得とはどのようなものであろうか。それは、修行せずに、契わないことをし終わったとして「今から、隙になった」というようなものである。
    拙僧ヘタレ訳

これまでも、拙ブログでは坐禅と、曹洞宗に於ける伝燈とが、不即不離であることを指摘してきました。それは、伝燈に対する「信」がなければ、我々の行っている坐禅というのは、ただの習禅になってしまうということです。或いは、最近流行っているヒーリングなどと変わらなくなってしまうでしょう。ヒーリングが悪いとはいいません。それはそれで、必要な人がいるかもしれません。しかし、ヒーリングとは坐禅ではありません。坐禅に附随して、ヒーリング効果のようなものが得られるかもしれませんが、それは坐禅の目指すべき成果ではありません。例えば、損翁禅師も、上記訳文中に「愚かな者の言葉」として、「心が安らかで、身も静かにな」ることを挙げながら、それを「真実を知らない者の言葉」として批判しています。

ですから、損翁禅師も、この「坐禅箴」巻を提唱しながら、道元禅師が同巻の冒頭で藥山惟儼禅師の非思量に関する提唱を行っていることを承けて、自ら藥山禅師と釈迦牟尼仏との関係を説いてみせています。曹洞宗の伝燈に対する考え方には、幾つかの状況がありますが、七十五巻本『正法眼蔵』で、道元禅師が説かれたのは「仏祖一体論」という考え方です。具体的には、以下のような文言で知られることです。

 六祖、曹渓に、あるとき衆にしめしていはく、七仏より慧能にいたるにまで四十祖あり、慧能より七仏にいたるに四十祖あり。
 この道理、あきらかに仏祖正嗣の宗旨なり。いはゆる七仏は、過去荘厳劫に出現せるもあり、現在賢劫に出現せるもあり。しかあるに、四十祖の面授をつらぬるは、仏道なり、仏嗣なり。
 しかあればすなはち、六祖より向上して七仏にいたれば、四十祖の仏嗣あり。七仏より向上して六祖にいたるに、四十仏の仏嗣なるべし。仏道祖道、かくのごとし。証契にあらず、仏祖にあらざれば、仏智慧にあらず、祖究尽にあらず。仏智慧にあらざれば、仏信受なし、祖究尽にあらざれば、祖証契せず。しばらく四十祖といふは、近をかつがつ挙するなり。
    『正法眼蔵』「嗣書」巻

これは、中国禅宗六祖慧能禅師の言葉として紹介されており、『正法眼蔵』では上記の「嗣書」巻と、「仏道」巻に見ることができます。損翁禅師の提唱は、この見解を承けて行われたものと考えられます。いわば、過去七仏から、六祖(祖師)までが、結局、七仏から数えれば「四十仏」、一方で六祖から数えれば「四十祖」であるというのです。仏と祖師とが、全く切り離されずに、伝燈の中に並列しているのです。その並列を担保するのが「証契」という考え方です。それぞれの仏祖が、仏道・祖道を各々明らかにしてきているからこそ、その明らかにした事実から、数える方向性の違いくらいしか違わないということになります。

禅宗というのは、経典や論書を知的に理解することを目指すのではなくて、それらの「言葉」を生み出したのであろう、坐禅人の経験を重んじます。損翁禅師はそれを「小枝」と「大根」の喩えで示されます。自分自身の経験を、修行というエクササイズを通して、拡大し続けていくのです。拡大はエクササイズの中にあり、拡大したからこそ次のエクササイズを柔軟に生み出します。これこそが、修行が悟りを、悟りが修行を生み出す、「行持道環」という発想の源泉です。また、一度「悟った」と自覚したところで、その程度の如き体験を、全く重んじないような曹洞宗の宗風も、この「道環」から生み出されてきます。

損翁禅師も、「道環」を生み出さない、「道環」から生み出されない修証を否定し「修行せずに、契わないことをし終わった」として否定しています。一定の境地を評価せず、仏法については、まるで試験を通るかのような考え方を採りませんし、修行の継続だけが、それらの「道環」を生み出すので、境地に安住することを目指すかのような発想の全てが否定されなくてはなりません。あくまでも、修行を続けるという「出来事」を継続し、その上で、境地にしても悟りにしても、形成されなければならないのです。これは全て、道元禅師の宗風に契うものであります。

損翁禅師は江戸時代初期にあって、熱烈に道元禅師を追慕し、その実践を続けた禅僧として高い評価がされていますが、今回見てきた『弁話』からも、その慕古心を見出すことが出来るのであります。見出すことが可能な理由は、紛れもなく損翁禅師が質の高い参究を繰り返されたからに他なりません。冒頭の文章にも述べたように、損翁禅師は法嗣に、江戸時代の宗学の大成者として名高い面山瑞方師を輩出することになりますが、婆々面山と評されたその禅風は、損翁禅師の薫陶を受けたものになりますし、面山師にも道元禅師の坐禅を無私的に追慕して示された『自受用三昧』という著作があります。坐禅人たる者は必ず参照しなければならないものでありますね。

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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗6〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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