先日、いつも色々なご指導を賜ってお世話になっている先生から、「臨済宗には、断臂会が無いみたいだ」というお話しを頂戴しました。確かに、上堂を見ても、或いは清規を一通り見ても、あちらではやっている形跡がないようです。曹洞宗ではどうかといえば、永平寺を開かれた道元禅師(1200〜1253)が【雪の夕べに臂を断ち〜♪】で紹介した通り、建長2年(1250)12月10日に、断臂上堂を行われていて、中国禅宗二祖・慧可大師の不惜身命なる道業を讃歎しています。その後は、永平寺五世・義雲禅師(1253〜1333)も『義雲禅師語録』を見る限り、永平寺にて断臂上堂を行ったようです。
そして、今日、紹介していきたいのは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264〜1325)の断臂上堂です。瑩山禅師は、晩年に及んだ元亨3年(1323)12月10日に、慧可大師を讃歎する上堂を行われました。以前【12月11日 身心脱落のチャンス到来】で紹介した一件の前日の故事です。
おそらくは、両祖さまの故実があって、曹洞宗では断臂摂心を始めとする断臂会を行うようになったのでしょう。その摂心(定坐・長坐)の様子も含めて、以下に見ていきたいと思います。
臘月十日、上堂拈香して「自己本有の懐香、八百年来、大宋国裏より、伝来す。今朝、新たに拈出して焼く。向上廿五祖、大祖正宗普覚大師、古仏の面前に薫烈して、向下廿五世、洞谷開闢本祖の鼻孔に塞却す。嗚呼、能礼所礼の性空寂にして、感応道交思議すること難し、以て法乳の恩に酬いんことを」と。〈著座〉
「仏性の義を知らんと欲はば、当に時節因縁を観ずべし。今月は、這の好時節、一昨夜、釈迦老漢、六年端坐して、功満ちて、明星を見て悟道し、「我と大地有情と、同時成道す」と。二千年来、此の娑婆世界、十方仏土の間、大地有情同時成道の仏語を見ざる無しと聞く。今、暁来、二祖大師、一夜精進し、祖室に投入して、直指人心・見性成仏の妙旨を聞く。八百年来、三国流伝し、一切衆生、緇白二衆、直指人心・見性成仏の宗旨、信ぜざる無し。憶うに夫れ、二祖、一夜精進、歴劫の修行円満し、骨を換え髄を改めて、生前に身を転じ来る。
老僧十九歳の時、不死にして兜率天に生じ不退転位に登って、悉く五十四世の法孫に連なり、恣に二十五世の嫡孫と為り、七・九両夜に打坐して明を遅つ。算じ来るに、已に四十一年、一夜の障難無く、連年の間打坐し来つ。志気、古今を超越す。
仏祖の冥薫親切なり、徳風内に動きて、偃嵐、抄を払い、潤益外に蒙り、夜雨、地を洗う、夜来睡らず、天地を動ず、清白の家風、誰ぞ伝えざる、八百年来、今夜の景、千山の雪白く最も嬋娟たり」と。
大乗寺古写本『洞谷記』、一部表現や文字を改めて訓読す
内容的には、非常に多くのことを学ぶことが出来る断臂上堂であるといえましょう。瑩山禅師には一応、侍者の源祖が編集した『瑩山瑾禅師語録』が、『洞谷記』に入っていますので、当然に上堂によって修行僧を導いておられたことは明らかですが、それ以外にもこのような上堂を行っておられたわけです。臘月10日の朝に行われたこの上堂(上堂は朝に行われる)では、まず瑩山禅師が懐中に納めていた香木を焚いて、中国禅宗二祖慧可大師を顕彰されました。その香木は、800年前の中国から伝来した物であり、だからこそ、遡ること二十五祖である慧可大師の面前に焚くことが出来たというのです。更に、慧可大師から下って二十五祖である自ら自身の鼻の中にも、その香りが満ちたと伝えているのです。これこそ、能礼所礼性空寂にして、感応道交難思議(ともに「礼拝偈」)なる「焼香」なのです。
さて、瑩山禅師が法座に着いて仰るには、まず最初「仏性の義」の提唱から始まっています。この「仏言、欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」は、道元禅師も『正法眼蔵』「仏性」巻にて提唱された一節ですけれども、道元禅師は主に「当観」のところと、「若至」のところを中心にお話しになりますけれども、瑩山禅師は「好時節」について採り上げています。いわば、仏性の義を知る好時節であるので、まさにこの仏陀釈尊の「同時成道」と、その宗風を受け嗣いだ達磨大師の「直指人心・見性成仏」の妙旨と、その達磨に全身心を帰依した「慧可断臂」の故実を見ていくべきだというのです。
「見性成仏」というと、これは道元禅師が『正法眼蔵』「四禅比丘」巻で、「見性」の語が出る故に、六祖慧能『壇経』を偽書と判じた如く、道元禅師が嫌われた語であり、更にいえば、日本達磨宗ではこの旨を会得することを重要視していたともいわれます(『伝光録』第52章)。ここから、瑩山禅師が達磨宗の影響を強く受け、道元禅師の、曹洞宗本来の宗風をねじ曲げたのではないか?という疑念までを考える人がいます。しかし、どうでしょう?瑩山禅師は、この語について、禅宗で伝統的に論じられてきたことを背景に仰っています。例えば、『伝光録』では、第36祖・薬山惟儼禅師の大悟した機縁で、「見性成仏」について論じています。これは、中国の様々な禅語録で、薬山惟儼禅師と本師・石頭希遷禅師の問答として、多くの機会に採り上げているからです。
或いは、達磨大師が、「(不立文字・教外別伝・)直指人心・見性成仏」という「標語」を用いたことについても、一般的な禅語録で、「達磨が西来して、不立文字・教外別伝の旨を伝えた」というような文脈を見ることは難しくありません。よって、我々は道元禅師の教えと反しているかどうか?というような皮相的な観点ではなくて、その時代に何を採り上げて、宗教的修道を進めていたか?という観点を重視すべきだといえます。瑩山禅師は、達磨の西来と、慧可の断臂を、その間に伝わる「宗風」に着目して、ここで採り上げていると見るべきなのです。
そして、慧可大師は9日夜の「一夜精進」にて、骨髄までも改換して、生きながら(生前に)身を転じ得たのです。
さて、瑩山禅師がここでいいたかったのは、実は「見性成仏」ではなくて、この「生前に身を転ず」ということです。自身の経験として、19歳の時、不死にして兜率天に生じ不退転位に登って、悉く五十四世の法孫に連なり、ほしいままに二十五世の嫡孫となったと仰っています。これは、同じ『洞谷記』では、「十九にして寂円塔主に参じ、菩提心を発して、不退転位に至る」と述べていますし、更には「本師宝慶寂円和尚の所に於いて、諸共に、慈氏菩薩の証明を為せし故に……」とも述べていますので、総合すると先の引用文の如くなります。
そして、その後は「七・九両夜に打坐して明を遅つ。算じ来るに、已に四十一年、一夜の障難無く、連年の間打坐し来つ。志気、古今を超越す」とありますが、ここには、7日夜・9日夜に一晩坐禅して、夜明けを待っていたというのです。その年数は、既に19歳の時から、41年に及ぶといっています。この臘月十日の上堂が行われたのは、「大乗寺流布本」などを参照する限り、「元亨3年(1323)」であったとされています。ここから、「瑩山禅師58歳示寂説」は、完全に否定されます。何故ならば、19歳の時から、41年もの間、一度も「長坐の修行」を休んだことがないというのなら、この時には「60歳」であるからです。「正中2年(1325)」に「62歳」で示寂された瑩山禅師ですので、2年前には60歳・・・完全に計算が合います。よって、瑩山禅師が62歳で示寂したというのが正しいのです。なお、この2晩の長坐については、更に以下の文脈も知られています。
七日夜、九日夜、山僧住裏一衆長坐す。発心以来、四十余年、此に於いて両夜、未だ打眠せざる故なり。住裏二十六年、多く一衆を率い、堂の裏に打坐するは、蓋し恒規の如し。
『瑩山清規』
ここでいう瑩山禅師の発心とは、19歳の時の発心を指します。よほど強い経験だったのでしょう。ところで、瑩山禅師が「兜率天」に行き、「慈氏=弥勒菩薩」の証明を自ら述べておられますけれども、ここで、先の慧可大師の、生きながらに身を換えたことと、瑩山禅師の「不死にして兜率天に生じ不退転位に登」るという話が、繋がってきますが、もう一つ、大本山永平寺開山・道元禅師が晩年に、兜率往生を説いたこととも重ねて考えていくべきだといえます(詳しくは【道元禅師の来世成仏観について】参照)。道元禅師は、仏陀が成仏する条件として、兜率天から降生することを挙げています。しかし、道元禅師の場合には、「四果の羅漢」がその位置にあるとはいいますが、兜率天には生前に行けるのか?それとも死後にのみ行けるのか?今1つ分からないところです。ただ、生前だとすれば、まさにこの世界が「兜率天」に当たるのか?という問題が出ます。
瑩山禅師は、この問題を、「不死にして兜率天に生ず」という「宗教体験」を用いることによって、曖昧さを明瞭化したといえます。そして、道元禅師晩年に、また遠くに追いやられてしまった成仏の必要十分条件を、再度、今この身の上に行える可能性を回復したともいえます。結局それは、「この身」の問題なのです。慧可大師の如く、「為法捨身」すれば、兜率天に行くことにもなり、そして、成仏も可能となるという話になります。また、この場合は成仏も可能な「四禅四果を得た附法蔵の祖師」ともいえます。瑩山禅師は、その祖位にお立ちになりました。
今朝は、そんなことを想いながら、慧可大師と瑩山禅師の優れた道業をお慕いしたいところです。南無慧可大師、南無太祖大師。
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そして、今日、紹介していきたいのは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264〜1325)の断臂上堂です。瑩山禅師は、晩年に及んだ元亨3年(1323)12月10日に、慧可大師を讃歎する上堂を行われました。以前【12月11日 身心脱落のチャンス到来】で紹介した一件の前日の故事です。
おそらくは、両祖さまの故実があって、曹洞宗では断臂摂心を始めとする断臂会を行うようになったのでしょう。その摂心(定坐・長坐)の様子も含めて、以下に見ていきたいと思います。
臘月十日、上堂拈香して「自己本有の懐香、八百年来、大宋国裏より、伝来す。今朝、新たに拈出して焼く。向上廿五祖、大祖正宗普覚大師、古仏の面前に薫烈して、向下廿五世、洞谷開闢本祖の鼻孔に塞却す。嗚呼、能礼所礼の性空寂にして、感応道交思議すること難し、以て法乳の恩に酬いんことを」と。〈著座〉
「仏性の義を知らんと欲はば、当に時節因縁を観ずべし。今月は、這の好時節、一昨夜、釈迦老漢、六年端坐して、功満ちて、明星を見て悟道し、「我と大地有情と、同時成道す」と。二千年来、此の娑婆世界、十方仏土の間、大地有情同時成道の仏語を見ざる無しと聞く。今、暁来、二祖大師、一夜精進し、祖室に投入して、直指人心・見性成仏の妙旨を聞く。八百年来、三国流伝し、一切衆生、緇白二衆、直指人心・見性成仏の宗旨、信ぜざる無し。憶うに夫れ、二祖、一夜精進、歴劫の修行円満し、骨を換え髄を改めて、生前に身を転じ来る。
老僧十九歳の時、不死にして兜率天に生じ不退転位に登って、悉く五十四世の法孫に連なり、恣に二十五世の嫡孫と為り、七・九両夜に打坐して明を遅つ。算じ来るに、已に四十一年、一夜の障難無く、連年の間打坐し来つ。志気、古今を超越す。
仏祖の冥薫親切なり、徳風内に動きて、偃嵐、抄を払い、潤益外に蒙り、夜雨、地を洗う、夜来睡らず、天地を動ず、清白の家風、誰ぞ伝えざる、八百年来、今夜の景、千山の雪白く最も嬋娟たり」と。
大乗寺古写本『洞谷記』、一部表現や文字を改めて訓読す
内容的には、非常に多くのことを学ぶことが出来る断臂上堂であるといえましょう。瑩山禅師には一応、侍者の源祖が編集した『瑩山瑾禅師語録』が、『洞谷記』に入っていますので、当然に上堂によって修行僧を導いておられたことは明らかですが、それ以外にもこのような上堂を行っておられたわけです。臘月10日の朝に行われたこの上堂(上堂は朝に行われる)では、まず瑩山禅師が懐中に納めていた香木を焚いて、中国禅宗二祖慧可大師を顕彰されました。その香木は、800年前の中国から伝来した物であり、だからこそ、遡ること二十五祖である慧可大師の面前に焚くことが出来たというのです。更に、慧可大師から下って二十五祖である自ら自身の鼻の中にも、その香りが満ちたと伝えているのです。これこそ、能礼所礼性空寂にして、感応道交難思議(ともに「礼拝偈」)なる「焼香」なのです。
さて、瑩山禅師が法座に着いて仰るには、まず最初「仏性の義」の提唱から始まっています。この「仏言、欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」は、道元禅師も『正法眼蔵』「仏性」巻にて提唱された一節ですけれども、道元禅師は主に「当観」のところと、「若至」のところを中心にお話しになりますけれども、瑩山禅師は「好時節」について採り上げています。いわば、仏性の義を知る好時節であるので、まさにこの仏陀釈尊の「同時成道」と、その宗風を受け嗣いだ達磨大師の「直指人心・見性成仏」の妙旨と、その達磨に全身心を帰依した「慧可断臂」の故実を見ていくべきだというのです。
「見性成仏」というと、これは道元禅師が『正法眼蔵』「四禅比丘」巻で、「見性」の語が出る故に、六祖慧能『壇経』を偽書と判じた如く、道元禅師が嫌われた語であり、更にいえば、日本達磨宗ではこの旨を会得することを重要視していたともいわれます(『伝光録』第52章)。ここから、瑩山禅師が達磨宗の影響を強く受け、道元禅師の、曹洞宗本来の宗風をねじ曲げたのではないか?という疑念までを考える人がいます。しかし、どうでしょう?瑩山禅師は、この語について、禅宗で伝統的に論じられてきたことを背景に仰っています。例えば、『伝光録』では、第36祖・薬山惟儼禅師の大悟した機縁で、「見性成仏」について論じています。これは、中国の様々な禅語録で、薬山惟儼禅師と本師・石頭希遷禅師の問答として、多くの機会に採り上げているからです。
或いは、達磨大師が、「(不立文字・教外別伝・)直指人心・見性成仏」という「標語」を用いたことについても、一般的な禅語録で、「達磨が西来して、不立文字・教外別伝の旨を伝えた」というような文脈を見ることは難しくありません。よって、我々は道元禅師の教えと反しているかどうか?というような皮相的な観点ではなくて、その時代に何を採り上げて、宗教的修道を進めていたか?という観点を重視すべきだといえます。瑩山禅師は、達磨の西来と、慧可の断臂を、その間に伝わる「宗風」に着目して、ここで採り上げていると見るべきなのです。
そして、慧可大師は9日夜の「一夜精進」にて、骨髄までも改換して、生きながら(生前に)身を転じ得たのです。
さて、瑩山禅師がここでいいたかったのは、実は「見性成仏」ではなくて、この「生前に身を転ず」ということです。自身の経験として、19歳の時、不死にして兜率天に生じ不退転位に登って、悉く五十四世の法孫に連なり、ほしいままに二十五世の嫡孫となったと仰っています。これは、同じ『洞谷記』では、「十九にして寂円塔主に参じ、菩提心を発して、不退転位に至る」と述べていますし、更には「本師宝慶寂円和尚の所に於いて、諸共に、慈氏菩薩の証明を為せし故に……」とも述べていますので、総合すると先の引用文の如くなります。
そして、その後は「七・九両夜に打坐して明を遅つ。算じ来るに、已に四十一年、一夜の障難無く、連年の間打坐し来つ。志気、古今を超越す」とありますが、ここには、7日夜・9日夜に一晩坐禅して、夜明けを待っていたというのです。その年数は、既に19歳の時から、41年に及ぶといっています。この臘月十日の上堂が行われたのは、「大乗寺流布本」などを参照する限り、「元亨3年(1323)」であったとされています。ここから、「瑩山禅師58歳示寂説」は、完全に否定されます。何故ならば、19歳の時から、41年もの間、一度も「長坐の修行」を休んだことがないというのなら、この時には「60歳」であるからです。「正中2年(1325)」に「62歳」で示寂された瑩山禅師ですので、2年前には60歳・・・完全に計算が合います。よって、瑩山禅師が62歳で示寂したというのが正しいのです。なお、この2晩の長坐については、更に以下の文脈も知られています。
七日夜、九日夜、山僧住裏一衆長坐す。発心以来、四十余年、此に於いて両夜、未だ打眠せざる故なり。住裏二十六年、多く一衆を率い、堂の裏に打坐するは、蓋し恒規の如し。
『瑩山清規』
ここでいう瑩山禅師の発心とは、19歳の時の発心を指します。よほど強い経験だったのでしょう。ところで、瑩山禅師が「兜率天」に行き、「慈氏=弥勒菩薩」の証明を自ら述べておられますけれども、ここで、先の慧可大師の、生きながらに身を換えたことと、瑩山禅師の「不死にして兜率天に生じ不退転位に登」るという話が、繋がってきますが、もう一つ、大本山永平寺開山・道元禅師が晩年に、兜率往生を説いたこととも重ねて考えていくべきだといえます(詳しくは【道元禅師の来世成仏観について】参照)。道元禅師は、仏陀が成仏する条件として、兜率天から降生することを挙げています。しかし、道元禅師の場合には、「四果の羅漢」がその位置にあるとはいいますが、兜率天には生前に行けるのか?それとも死後にのみ行けるのか?今1つ分からないところです。ただ、生前だとすれば、まさにこの世界が「兜率天」に当たるのか?という問題が出ます。
瑩山禅師は、この問題を、「不死にして兜率天に生ず」という「宗教体験」を用いることによって、曖昧さを明瞭化したといえます。そして、道元禅師晩年に、また遠くに追いやられてしまった成仏の必要十分条件を、再度、今この身の上に行える可能性を回復したともいえます。結局それは、「この身」の問題なのです。慧可大師の如く、「為法捨身」すれば、兜率天に行くことにもなり、そして、成仏も可能となるという話になります。また、この場合は成仏も可能な「四禅四果を得た附法蔵の祖師」ともいえます。瑩山禅師は、その祖位にお立ちになりました。
今朝は、そんなことを想いながら、慧可大師と瑩山禅師の優れた道業をお慕いしたいところです。南無慧可大師、南無太祖大師。
この記事を評価して下さった方は、Image may be NSFW.
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