冬至は過ぎたとはいえ、本格的な冬の到来が厳しい季節となって参りました。こういう時期には1つ、良寛上人の和歌でも読んで、気分を軽やかにしてみても良いと思います。今回参照しているのは、吉野秀雄氏校注『良寛歌集』(東洋文庫556、平凡社)です。
まずは、この辺などはどうでしょう。
三条の御坊にて
不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば何をこの世の思ひ出にせむ
三条の御坊というのは、新潟県の三条市にある本願寺別院(真宗大谷派)のことだそうで、ここで良寛上人は何首か和歌を詠んでいます。内容は、浄土真宗寺院にて詠まれたものですから、当然に阿弥陀仏への信仰が書かれています。この辺から、良寛上人を、ただの禅僧だと区別できない難しさがありますが、とはいえ、元々そういう「区別」などは不用なのでしょう。拙僧も、以前はそういう区別は厳密に行われるべきではないかとも思っていましたが、色々な歴史的事例を学んでいくと、決してそうは言い切れない場合が多いことも知りました。つまり、真に自分が納得して救済されたいと思う人は、その方法は何だって良いということです。修行体系・思想体系も、何だって良いのです。ただ、その納得がされたとき、それはそれとして他を不用にするだけですが、それ以上でも以下でもありません。それに、あくまでも自分に納得されたわけですから、他人からの承認がいるわけでもありません。だから、自分の信仰とやらの「正当性」を殊更に、他に対して訴える必要もありません。ただ、自然なままで良いのです。
なお、この和歌の大意は、思議することも出来ない阿弥陀仏の誓いが無いのなら、一体何を、この世の思い出にすべきだろうか?としているのです。逆にいえば、阿弥陀仏の救いの瞬間、聖衆の来迎をこそ、この浮き世の思い出にしたいということになるでしょう。
み仏のまことの誓ひの弘くあらばいざなひ給へをぢなきわれを
「をぢなき」というのは、善根が乏しいということです。つまり、禅僧として、印可証明を受けるほどであった良寛上人でも、いわゆる成仏に契うほどの善行を積むことはなかったという、凡夫の自覚が、このような和歌を詠ませたのです。おそらく、熱心に念仏も行い、阿弥陀仏におすがりする気持ちがあったことでしょう。
往生要集をよみしとき
我ながら嬉しくもあるか弥陀仏のいますみ国に行くと思へば
『往生要集』とは、天台宗の恵心僧都源信が著した、日本最初の体系的な浄土教学書といえる文献であり、全3巻あると思いますが、良寛上人はどこかで読む機会を得たようです。先の別院でしょうかね?今と違って、その辺に図書館や書店があって、本が山積みされている時代ではないので、文献の名前が出て来たとき、どこでこれを読んだか?ということを探るのは、当然の作業として行わなくてはなりません。果たして、どこで見たものか?ただ、流石に読み書きはもちろんのこと、教養もなくては読めない大著でありますので、良寛上人の学の深さを伺える一首であります。
草の庵に寝てもさめても申すこと南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
良寛上人、おそらくは熱心に念仏もされたことと思います。その様子が垣間見えるのが、この和歌になります。この和歌ですが、『傘松道詠』を学んだともされる良寛上人、参照し本歌取りの原典となったのは、以下の道元禅師の和歌でしょう。
草庵偶詠
草の菴にねてもさめてももをすこと南無釈迦牟尼仏憐みたまへ
末尾の違いに注目すべきだといえましょう。道元禅師は、「南無釈迦牟尼仏憐みたまへ」と、釈尊の御名を唱えながら、その憐愍が垂れてきて、自分の救いに繋がることを期待しています。ところが、良寛上人の場合には、ただ「南無阿弥陀仏」と一体になってしまっていて、機法一体なる救済に浸る様子を窺うことが出来ます。これは、あの一遍聖人が、心地覚心禅師から印可証明を受けたと伝わる和歌にも通じていくような感じがしますね。
良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏といふと答へよ
いわゆる「辞世の和歌」では無いようですが、弟子達に分けた「形見の歌」だったようです。その一首に、良寛上人は、もし自分に対し、誰かが「辞世の言葉は何か?」と聞いたならば、という話を読み込んでいます。その答えは、南無阿弥陀仏ということです。最後まで、念仏による極楽往生を期待していた様子までもが伝わってきます。とはいえ、これは本当の辞世ではないので、実際の辞世はまた別にあります。
ということで、簡単に良寛上人の和歌を見てきましたが、遺された和歌の数は相当数に及ぶので、また機会があれば別のも見ていきたいと思います。
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三条の御坊にて
不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば何をこの世の思ひ出にせむ
三条の御坊というのは、新潟県の三条市にある本願寺別院(真宗大谷派)のことだそうで、ここで良寛上人は何首か和歌を詠んでいます。内容は、浄土真宗寺院にて詠まれたものですから、当然に阿弥陀仏への信仰が書かれています。この辺から、良寛上人を、ただの禅僧だと区別できない難しさがありますが、とはいえ、元々そういう「区別」などは不用なのでしょう。拙僧も、以前はそういう区別は厳密に行われるべきではないかとも思っていましたが、色々な歴史的事例を学んでいくと、決してそうは言い切れない場合が多いことも知りました。つまり、真に自分が納得して救済されたいと思う人は、その方法は何だって良いということです。修行体系・思想体系も、何だって良いのです。ただ、その納得がされたとき、それはそれとして他を不用にするだけですが、それ以上でも以下でもありません。それに、あくまでも自分に納得されたわけですから、他人からの承認がいるわけでもありません。だから、自分の信仰とやらの「正当性」を殊更に、他に対して訴える必要もありません。ただ、自然なままで良いのです。
なお、この和歌の大意は、思議することも出来ない阿弥陀仏の誓いが無いのなら、一体何を、この世の思い出にすべきだろうか?としているのです。逆にいえば、阿弥陀仏の救いの瞬間、聖衆の来迎をこそ、この浮き世の思い出にしたいということになるでしょう。
み仏のまことの誓ひの弘くあらばいざなひ給へをぢなきわれを
「をぢなき」というのは、善根が乏しいということです。つまり、禅僧として、印可証明を受けるほどであった良寛上人でも、いわゆる成仏に契うほどの善行を積むことはなかったという、凡夫の自覚が、このような和歌を詠ませたのです。おそらく、熱心に念仏も行い、阿弥陀仏におすがりする気持ちがあったことでしょう。
往生要集をよみしとき
我ながら嬉しくもあるか弥陀仏のいますみ国に行くと思へば
『往生要集』とは、天台宗の恵心僧都源信が著した、日本最初の体系的な浄土教学書といえる文献であり、全3巻あると思いますが、良寛上人はどこかで読む機会を得たようです。先の別院でしょうかね?今と違って、その辺に図書館や書店があって、本が山積みされている時代ではないので、文献の名前が出て来たとき、どこでこれを読んだか?ということを探るのは、当然の作業として行わなくてはなりません。果たして、どこで見たものか?ただ、流石に読み書きはもちろんのこと、教養もなくては読めない大著でありますので、良寛上人の学の深さを伺える一首であります。
草の庵に寝てもさめても申すこと南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
良寛上人、おそらくは熱心に念仏もされたことと思います。その様子が垣間見えるのが、この和歌になります。この和歌ですが、『傘松道詠』を学んだともされる良寛上人、参照し本歌取りの原典となったのは、以下の道元禅師の和歌でしょう。
草庵偶詠
草の菴にねてもさめてももをすこと南無釈迦牟尼仏憐みたまへ
末尾の違いに注目すべきだといえましょう。道元禅師は、「南無釈迦牟尼仏憐みたまへ」と、釈尊の御名を唱えながら、その憐愍が垂れてきて、自分の救いに繋がることを期待しています。ところが、良寛上人の場合には、ただ「南無阿弥陀仏」と一体になってしまっていて、機法一体なる救済に浸る様子を窺うことが出来ます。これは、あの一遍聖人が、心地覚心禅師から印可証明を受けたと伝わる和歌にも通じていくような感じがしますね。
良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏といふと答へよ
いわゆる「辞世の和歌」では無いようですが、弟子達に分けた「形見の歌」だったようです。その一首に、良寛上人は、もし自分に対し、誰かが「辞世の言葉は何か?」と聞いたならば、という話を読み込んでいます。その答えは、南無阿弥陀仏ということです。最後まで、念仏による極楽往生を期待していた様子までもが伝わってきます。とはいえ、これは本当の辞世ではないので、実際の辞世はまた別にあります。
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