今日は成人式だそうで、まずは、全国の新成人の皆さんおめでとうございます。まぁ、この世界的な不況で、本人達はおめでたくはないとか思っているのかも知れませんが、人生どこで何があるか分からないので、「分かったフリ」をしないで、まずは成人としての人生を歩んでみれば良いと思う拙僧です。
毎年、「成人の日」にはなんだか良く分からない記事をアップすることにしているのですが、今年もアップしておきたいと思います。とりあえず、新成人の皆さん、おめでとうございます。早く、「新聖人」になれるように、善人街道を目指していただきたいと思いますが、とはいえ、世の中善人ばっかりになってもつまらないですけどね・・・
だってそうでしょう。善人か悪人かなんて、そんな簡単に決められるわけはないです。時代によっても、場所によっても違うわけですからね。さて、とりあえず以下の一文はどうでしょうか。
いわゆる大心とはその心を大山にし、その心を大海にし、偏無く党無き心なり。両を提げて軽しと為さず、鈞を扛げて重しとすべからず。春声に引かれて春沢に遊ばず、秋色を見ると雖も更に秋心無く、四運を一景に競い、銖両を一目に視る。是の一節に於いて、大の字を書くべきなり。大の字を知るべきなり。大の字を学ぶべきなり。
夾山の典座、若し大字を学ばずんば、不覚の一笑もて大原を度すること莫らん。
大潙禅師、大字を書かずんば、一茎柴を取って三たび吹くべからざらん。
洞山和尚大字を知らずんば、三斤の麻を拈じて一僧に示すこと莫らん。
応に知るべし、向来の大善知識、倶に是、百草頭の上に大字を学び来たる、今、乃ち自在に大声を作し、大義を説き、大事を了じ、大人を接し、遮箇一段の大事因縁を成就する者なり。
『典座教訓』
道元禅師が、修行僧のために食事を作る役僧の心得や作法を示した『典座教訓』に見える「三心」の一、「大心」です。大心を持った人のことを「大人」というべきでしょう。何らかの立場が「大人」とするのではないのです。親になったから大人なのでもなく、立派な仕事に就いたから大人なのでもなく、問題はその心持ちなのです。ここで「大心」というと、すぐに「大小」の相対的な価値判断を付けてしまいがちのところ、道元禅師の場合の「大心」というのは、「その心を大山にし、その心を大海に」することが求められます。
具体的に言えば、「偏無く党無き心」こそが「大心」ということです。我々は通常、「偏り」の心を持ってしまいます。「○○が好き、○○が嫌い」「○○が良い、○○が悪い」等々、幾らでもその事例を挙げることが出来ますけれども、その時、「我々の吾我」が前に出た形で判断される場合には、極めて問題です。そうではなく、正しき思考法に則り、正しき道理に基づいて判断することが必要なのです。その時、正しき思考法を得るためには、正しき精神集中が必要になるわけです。我々はそれを、正しき姿勢によって坐る、つまりは坐禅によって得るわけです。
乃ち正身端坐して、左に側ち右に傾き、前に躬り後に仰ぐことを得ざれ。要らず、耳と肩と対し、鼻と臍と対せしむべし。
『普勧坐禅儀』
見てください。もう、この段階で、「不偏不党」なる姿勢であることが分かると思います。傾きがないのです。よって、当然に心も真っ直ぐになります。その心持ちを、普段から心掛けていけば、自ずと「大心」となるのです。そして、道元禅師が引用された「夾山の典座」「大潙禅師」「洞山和尚(守初)」などは、その「大心」の実践が出来ていて、名前が歴史に残った禅宗の祖師方ということになります。まず、「夾山の典座」の話は、夾山善会が潙山霊祐の下にいたときに典座になっていたのですが、大原孚上座が法身の話をしていると、それを夾山が失笑しました。しかし、そのことで上座は仏法を明らかにしました。そのことを、道元禅師が仰っているのです。この失笑は莫迦にしたのではなく、正しい道理を示したのです。また、潙山がまだ百丈懐海禅師の下で修行していたとき、「どこにいたのだ」と百丈に問われた潙山は、持っていた柴を吹いて渡すと、それを認めて百丈は潙山を典座にしました。その後、機縁が契って、霊祐和尚はそれこそ「潙山」の住持として派遣されます。また、洞山守初の「麻三斤」の話は、典座寮がある庫院にいたときの話だとされています(圜悟克勤『碧巌録』第12則参照)。
つまり、典座でありながら、如上の禅僧達が多くの僧を導いたのは、そこに不偏不党なる「大心」があったからだとしているのです。大心とは、誰かの上に立つのではなく、誰かの下になるのではなく、ただ必要な生き方をし、そして慈悲を忘れず、真っ直ぐに生きていくことです。とはいえ、この世界はそういう生き方の人を愚直だと莫迦にし、ちょっとした小知恵が効く人が上に行ってしまうような印象も受けます。とはいえどうでしょう?小知恵は小知恵、メッキが剥がれる日も近いような気もします。そうではなく、熱心に地金を鍛えていくことで、自ずと出てくるような鈍い光の方が、長く輝きを保つ気もします。それこそ、5年や10年ではなく、何世代にもわたるような偉大な光明です。
そのような「大人」の智慧を得る「大人(だいにん)」になっていただきたい、いや、これは新成人のみならず、拙僧も含めたあらゆる人に向けていわれることなのだろうと思います。
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毎年、「成人の日」にはなんだか良く分からない記事をアップすることにしているのですが、今年もアップしておきたいと思います。とりあえず、新成人の皆さん、おめでとうございます。早く、「新聖人」になれるように、善人街道を目指していただきたいと思いますが、とはいえ、世の中善人ばっかりになってもつまらないですけどね・・・
だってそうでしょう。善人か悪人かなんて、そんな簡単に決められるわけはないです。時代によっても、場所によっても違うわけですからね。さて、とりあえず以下の一文はどうでしょうか。
いわゆる大心とはその心を大山にし、その心を大海にし、偏無く党無き心なり。両を提げて軽しと為さず、鈞を扛げて重しとすべからず。春声に引かれて春沢に遊ばず、秋色を見ると雖も更に秋心無く、四運を一景に競い、銖両を一目に視る。是の一節に於いて、大の字を書くべきなり。大の字を知るべきなり。大の字を学ぶべきなり。
夾山の典座、若し大字を学ばずんば、不覚の一笑もて大原を度すること莫らん。
大潙禅師、大字を書かずんば、一茎柴を取って三たび吹くべからざらん。
洞山和尚大字を知らずんば、三斤の麻を拈じて一僧に示すこと莫らん。
応に知るべし、向来の大善知識、倶に是、百草頭の上に大字を学び来たる、今、乃ち自在に大声を作し、大義を説き、大事を了じ、大人を接し、遮箇一段の大事因縁を成就する者なり。
『典座教訓』
道元禅師が、修行僧のために食事を作る役僧の心得や作法を示した『典座教訓』に見える「三心」の一、「大心」です。大心を持った人のことを「大人」というべきでしょう。何らかの立場が「大人」とするのではないのです。親になったから大人なのでもなく、立派な仕事に就いたから大人なのでもなく、問題はその心持ちなのです。ここで「大心」というと、すぐに「大小」の相対的な価値判断を付けてしまいがちのところ、道元禅師の場合の「大心」というのは、「その心を大山にし、その心を大海に」することが求められます。
具体的に言えば、「偏無く党無き心」こそが「大心」ということです。我々は通常、「偏り」の心を持ってしまいます。「○○が好き、○○が嫌い」「○○が良い、○○が悪い」等々、幾らでもその事例を挙げることが出来ますけれども、その時、「我々の吾我」が前に出た形で判断される場合には、極めて問題です。そうではなく、正しき思考法に則り、正しき道理に基づいて判断することが必要なのです。その時、正しき思考法を得るためには、正しき精神集中が必要になるわけです。我々はそれを、正しき姿勢によって坐る、つまりは坐禅によって得るわけです。
乃ち正身端坐して、左に側ち右に傾き、前に躬り後に仰ぐことを得ざれ。要らず、耳と肩と対し、鼻と臍と対せしむべし。
『普勧坐禅儀』
見てください。もう、この段階で、「不偏不党」なる姿勢であることが分かると思います。傾きがないのです。よって、当然に心も真っ直ぐになります。その心持ちを、普段から心掛けていけば、自ずと「大心」となるのです。そして、道元禅師が引用された「夾山の典座」「大潙禅師」「洞山和尚(守初)」などは、その「大心」の実践が出来ていて、名前が歴史に残った禅宗の祖師方ということになります。まず、「夾山の典座」の話は、夾山善会が潙山霊祐の下にいたときに典座になっていたのですが、大原孚上座が法身の話をしていると、それを夾山が失笑しました。しかし、そのことで上座は仏法を明らかにしました。そのことを、道元禅師が仰っているのです。この失笑は莫迦にしたのではなく、正しい道理を示したのです。また、潙山がまだ百丈懐海禅師の下で修行していたとき、「どこにいたのだ」と百丈に問われた潙山は、持っていた柴を吹いて渡すと、それを認めて百丈は潙山を典座にしました。その後、機縁が契って、霊祐和尚はそれこそ「潙山」の住持として派遣されます。また、洞山守初の「麻三斤」の話は、典座寮がある庫院にいたときの話だとされています(圜悟克勤『碧巌録』第12則参照)。
つまり、典座でありながら、如上の禅僧達が多くの僧を導いたのは、そこに不偏不党なる「大心」があったからだとしているのです。大心とは、誰かの上に立つのではなく、誰かの下になるのではなく、ただ必要な生き方をし、そして慈悲を忘れず、真っ直ぐに生きていくことです。とはいえ、この世界はそういう生き方の人を愚直だと莫迦にし、ちょっとした小知恵が効く人が上に行ってしまうような印象も受けます。とはいえどうでしょう?小知恵は小知恵、メッキが剥がれる日も近いような気もします。そうではなく、熱心に地金を鍛えていくことで、自ずと出てくるような鈍い光の方が、長く輝きを保つ気もします。それこそ、5年や10年ではなく、何世代にもわたるような偉大な光明です。
そのような「大人」の智慧を得る「大人(だいにん)」になっていただきたい、いや、これは新成人のみならず、拙僧も含めたあらゆる人に向けていわれることなのだろうと思います。
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