他宗派の教義なども勉強してみなくては・・・と思い、拙僧は他宗派の方のブログにお邪魔し、相互にコメントを交換するということもございます。ただ、これまでは浄土真宗の方や、天台宗、或いは臨済宗の方ばっかりで、残念ながら日蓮宗系の方とは、そういう交流をしたことがございませんでした。で、拙僧が勉強になると思い、毎日閲覧しているブログは、明らかに日蓮宗系(日蓮正宗かもしれない)の方なのですが、コメント欄などを開放していないので、直接教えてはいただけません。
まぁ、本気でネット上で情報収集したいのなら、mixiとかgreeにでも招待してもらって、詳しい人に聞くとか、どこかの掲示板に行って聞いてみる、という作業を経れば良いのだろうとは思うんですけどね・・・
で、いきなり話は変わるのですが、最近そのブログを読んでいて、どうしても気になった表現があります。それは、「日蓮聖人の『○○』では、かくかくしかじかの教えが説かれていると拝します」(要約及び下線は拙僧)という一文です。何なんだ?この「拝します」っていう言い回しは?ということで、他のブログを見てみると、どうやら一部の浄土真宗系のブログでも、これと同じ表現をしているようです。要するに、「開祖の教えを承った」という意味で用いられているのでしょう。ただただ虚心坦懐に師の教えを承る、その時には拝さざるを得ないので、「拝します」という言い回しになるかと思われます。なお、拙僧が勝手に判断していることなので、もし「違うんじゃ!!」という方がおられれば、速攻コメントなりメールなりでご教授いただければと存じます。
で、この「拝します」という表現を見て、ふと思い出したのが、道元禅師の以下の言葉です。
曹山元証大師、因僧問、承教有言、大海不宿死屍。如何是海。師云、包含万有。僧云、為什麼不宿死屍。師云、絶気者不著。僧云、既是包含万有、為什麼絶気者不著。師云、万有非其功絶気。
この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。いま承教有言といふは、仏祖正教なり。凡聖の教にあらず、附仏法の小教にあらず。
『正法眼蔵』「海印三昧」巻
注目しているのは「承教有言」になります。これを訓読すると「承るに、教えに言えること有り」となるようで、この「承るに」とされる教えが、まさに「仏祖正教」だというのです。道元禅師は洞山禅師の弟子であり、雲居道膺禅師の兄弟弟子である曹山本寂禅師の教えが肝心だということを述べるために、この「承教有言」を論じられたのでしょう。
で、この「承る」って表現と「拝します」って表現、多分同じような心境で使われているんだろう、とか言いたいわけです。それにしても、これくらい「反権威主義」的な禅宗であっても、意外と「敬語」を気にする機会は多く、様々な文章を書いた時にも、祖師の言葉をどのように承ったかを示すのは、難しいのです。その意味では、余計な摩擦を消すためにも「拝します」っていうのは良いのかもしれませんが、拙僧的にちょっとアレなのが、やっぱりこれだと「宗教」になっちゃうよなぁ・・・ということです。無論、仏教は宗教ですし、禅宗も宗教ですが、でも、この「拝します」っていうのとはちょっと違う気もするわけです。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教9〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
まぁ、本気でネット上で情報収集したいのなら、mixiとかgreeにでも招待してもらって、詳しい人に聞くとか、どこかの掲示板に行って聞いてみる、という作業を経れば良いのだろうとは思うんですけどね・・・
で、いきなり話は変わるのですが、最近そのブログを読んでいて、どうしても気になった表現があります。それは、「日蓮聖人の『○○』では、かくかくしかじかの教えが説かれていると拝します」(要約及び下線は拙僧)という一文です。何なんだ?この「拝します」っていう言い回しは?ということで、他のブログを見てみると、どうやら一部の浄土真宗系のブログでも、これと同じ表現をしているようです。要するに、「開祖の教えを承った」という意味で用いられているのでしょう。ただただ虚心坦懐に師の教えを承る、その時には拝さざるを得ないので、「拝します」という言い回しになるかと思われます。なお、拙僧が勝手に判断していることなので、もし「違うんじゃ!!」という方がおられれば、速攻コメントなりメールなりでご教授いただければと存じます。
で、この「拝します」という表現を見て、ふと思い出したのが、道元禅師の以下の言葉です。
曹山元証大師、因僧問、承教有言、大海不宿死屍。如何是海。師云、包含万有。僧云、為什麼不宿死屍。師云、絶気者不著。僧云、既是包含万有、為什麼絶気者不著。師云、万有非其功絶気。
この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。いま承教有言といふは、仏祖正教なり。凡聖の教にあらず、附仏法の小教にあらず。
『正法眼蔵』「海印三昧」巻
注目しているのは「承教有言」になります。これを訓読すると「承るに、教えに言えること有り」となるようで、この「承るに」とされる教えが、まさに「仏祖正教」だというのです。道元禅師は洞山禅師の弟子であり、雲居道膺禅師の兄弟弟子である曹山本寂禅師の教えが肝心だということを述べるために、この「承教有言」を論じられたのでしょう。
で、この「承る」って表現と「拝します」って表現、多分同じような心境で使われているんだろう、とか言いたいわけです。それにしても、これくらい「反権威主義」的な禅宗であっても、意外と「敬語」を気にする機会は多く、様々な文章を書いた時にも、祖師の言葉をどのように承ったかを示すのは、難しいのです。その意味では、余計な摩擦を消すためにも「拝します」っていうのは良いのかもしれませんが、拙僧的にちょっとアレなのが、やっぱりこれだと「宗教」になっちゃうよなぁ・・・ということです。無論、仏教は宗教ですし、禅宗も宗教ですが、でも、この「拝します」っていうのとはちょっと違う気もするわけです。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈仏教9〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。