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盤珪禅師修学の根源「明徳」について

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江戸時代、臨済宗が輩出した傑僧の1人である盤珪永琢禅師は、その伝記を見てみると、『大学』という儒教の文献に出て来る「明徳」ということの真実を知りたくて、修学を志し、出家に至ったとされています。ところで、或る時、盤珪禅師は悟りを開き、結果的に「明徳」を明らかにしたのですが、どうして仏教の修行から、儒教の「明徳」が明らかに出来るのか?確かに、仏・儒・道の「三教一致」という概念は、江戸時代よりも遙か前から、日本・中国で行われていましたし、そういう共通なところでもあるのか?と疑問に思っていたのですが、先日購入した、これまた臨済宗の『至道無難禅師集』(春秋社)を見ていたところ、拙僧の疑問は氷解したのであります。

 第一に、仏は無一物を教えて、或る時には「なむあみだ仏」と名を付け、「妙法」と名を付け、「阿字本不生」と名を付け、「禅」と名を付け、本来無一物を色々に宣ったのである。
 孔子道では、天命を性といい、また、『大学』では明徳を明らかにせよといい、また、知を極めることは、物に至ると教えられていることも、本来無一物のことである。
    前掲同著、105頁、拙僧ヘタレ訳

ははぁ、こういうことでしたか。臨済宗には、孔子の教えや儒教の文献で説かれる概念を、「本来無一物」で括っていこうという展開があったんですね。結果的に、至道無難禅師は悟りについて、極めて融通無碍な状況であるとし、その上で、南無阿弥陀仏という浄土信仰にも、『法華経』にも、華厳や密教で用いる「阿字本不生」にも通じていくというわけです。勿論禅にも通じていくわけですが、それ程に「本来無一物」という言葉には、破壊力があると言うことでしょう。

御存知の通り、「本来無一物」というのは、かの中国禅宗六祖慧能禅師が、五祖弘忍禅師に奉った無相偈の一句ということになるわけですけれども、拙僧などは「本来、無一物」という状況に安住して、あらゆる造作的発想を否定することに、意義があるというマイナス面ばかりを感じていましたが、流石に名人、無難禅師はキチッと仏教史を根底的に支える概念として把握されているようです。

それにしましても、ここから盤珪禅師が禅宗にて、「明徳」を明らかにしたということも、この「本来無一物」というところで把握すれば、スッキリいくように思います。もちろん、その方が分かり易いという人もいるのでしょうが、拙僧などは「不生の仏心」というのが、どうしても会得できずにいたことがあります。その後、別の方法を駆使(要するに、盤珪禅師への批判者の言葉から、逆にその内容を明確化させた)して、或る程度納得していたのですが、この「本来無一物」というのは、染みましたですね。極めて強く腹落ちしました。

う〜む・・・あの苦労は何だったのだろうか?とはいえ、「不生の仏心」と「本来無一物」、分かってしまえば手品のネタのようなものであり、本当に簡単なこと、というか、だとすれば当たり前のことだと把握できますけれども、外にも、多くのことで、分かったつもりになって、まだまだ分かっていないことも多いんでしょうな。だからこそ、学びというのは面白い限りです。あと、『大学』も、「朱子学」では重んじられたということですが、学んでみる必要がありそうです。確か、「講談社学術文庫」で出てたような・・・

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