現在でこそ、曹洞宗では、永平寺・總持寺という両大本山制度が確立していますが、歴史的経緯を見ていくと、そこまで綺麗な感じで成立していたわけではありませんでした。どちらかが上に立とうと画策してみたり、或いは、どちらかがもう一方の運営を助けてみたり、或いは完全に分離して別の宗派になってみようとしたり、色々とあったのです。ただ、こういう一文を見てみると、決して、対立ばかりしていたのではないと思います。禅宗ですから、一定の見解に固執するのは、決してカッコ良いものではないのです。
越前国、志比庄、吉祥山永平禅寺は、仏法禅師道元和尚開闢の真跡にして、勅許の紫衣を賜うの法窟、日本曹洞根起の大本山なり。
二世懐弉、及び徹通、吾が先師瑩山に到り四世、正法展々、支葉聯綿なり。その徒、皆宗乗を演暢し、権実兼ね行う。吾も又、瑩山の示誨を受けて、肇めて永平の的意を得る。吾が法徒、太源・通幻・無端・大徹・実峰、都べて玄門を遠邇に闢き、法輪の枢機を執り、諸宗服膺するは、海の湧くが如く、駆烏為るは、雲の従うが如し。
嗚呼、世尊の正法眼、扶桑独り赫赫たるは、実に元和尚傑出の故なり。故に、児孫深く永平の禅味を甘い、各自法乳の恩を知りて、長えに応に祖山の栄光を憶うべし。もし真跡をして、荒蕪の地に著かしむるは、永平の児孫に不ず、菩薩子勉めよ。
貞治二年八月二十八日 古仏第五の法孫 峨山再礼塔 焚香謹記
永久岳水先生『正法眼蔵物語』(昭和仏教全書)参照、原漢文
ちゃんとした出典から本文を引用したかったのですが、見付からなかったので、永久先生の文章から引いてみたいと思います。これは、大本山總持寺二世として、瑩山禅師の後を継がれた峨山紹碩禅師(1276〜1366)が、貞治2年(1363)8月28日(道元禅師示寂の日)に永平寺を拝登した際、道元禅師をお祀りした承陽塔に対して記された銘文ということになります。一応、道元禅師111回忌ってことになるのでしょうか。何故、この年に拝登されたのかは分かりませんが、ただ、「再礼塔」という言葉から分かるように、少なくとも2度は拝登していることが分かります。
内容については、峨山禅師が道元禅師を讃えた銘文ということになります。また、永平寺についても、勅許の紫衣を賜った日本曹洞宗の根本本山だというのです。当時の本山の基準がどの辺に置かれていたかが分かります。そして、その道元禅師の教えは、懐弉禅師・義介禅師・瑩山禅師と伝えられ、更に峨山禅師に到ったと述懐しておられるのです。確かに、当時の禅僧の修行は、京都を中心とした臨済宗でも修行することが可能でしたし、北陸には曹洞宗が伸びていましたが、京都からすれば、田舎の一宗派という位置付けだったのではないか?と考えられます。ただ、地図を見れば一目瞭然ですが、北陸は京都に近く、当時、日本海側の海運が、今想像するよりも余程盛んだった可能性もありますので、田舎というのは間違っているかもしれません。
また、峨山禅師がおられた總持寺、或いは永光寺は能登(石川県北部)だったわけですが、越前北部(福井県北部)に位置する永平寺とは、遠距離というほどではなく、おそらく、8月28日の高祖忌に合わせて、峨山禅師を始め、總持寺の修行僧が永平寺を拝登したのかもしれません。今風に言えば、「祖山拝登」というところでしょうか。峨山禅師は、銘文の中でも、「峨山五哲」の名前を挙げて、道元禅師の宗風が広く伝えられていく様子を示されていますが、後には通幻禅師の法系に連なる祖師が、永平寺の運営を助けたりしているのです。
峨山禅師は、寺院をよくよく護持するように、繰り返し弟子達に説いていたところがあります。それはやはり、寺院が荒廃すると、僧侶の活動が著しく後退することが良く分かっていたからでしょう。永平寺は、道元禅師寂後、何度もそういう事態に陥ったことが、『建撕記』などの文献から知られます。無論、總持寺もそういう危機に陥ったことは何度かあったのでしょうが、しかし、總持寺は先の「五哲」が開いた五院を中心に維持運営されていました。或る意味、草の根的にその実力を蓄えてきたのが總持寺です。その淵源は、開山である瑩山禅師と、受け嗣いだ峨山禅師の慧眼があってのことだといえます。
「寺院の護持」というと、例えば道元禅師が『正法眼蔵』で仰ったことを思い出される方もおられるかもしれません。
末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるることなかれ、仏祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂・精藍を結構する、またく諸仏に仏宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅とせんがためなり。
「行持(下)」巻
どうしても、寺院の護持、伽藍の整備というと、仏陀への供養という意味を忘れて、ただ自己の名利のためだけに行うという状況に陥るようです。これは気を付けねばなりません。ただ、だからといって、寺院も伽藍も要らないというのは、これもまた間違えています。『梵網経』の四十八軽戒にも、伽藍の整備が唱えられていますけれども、それは道元禅師も好く承知されていました。
右、菩薩戒経に曰く、「若仏子よ、常にまさに一切の衆生を教化し、僧房を建立し、山林園田に仏塔を立作すべし。冬夏の安居、坐禅の処所、一切の行道の処所に、皆これを立つべし。もし爾らざれば、軽垢罪を犯す」と。然して寺院はこれ諸仏の道場なり。
『宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏』
よって、例えばプロテスタント的宗教観ばかりに依存して、伽藍などの物質性を否定し、精神性ばかり強調するというのは、仏教では「極端な教え」として否定すべきでしょう。その辺も「中道」を歩むべきだと、道元禅師、そしてその教えを受け嗣がれた峨山禅師の教えを拝見しながら、拙僧は強く主張しておきたいと思います。
最後に、生没年をご覧いただければ分かりますが、峨山禅師、この時既に80代後半だったのです。その歳に到ってもまだ、祖山の栄光の維持を訴え続ける信念、これをこそ、我々は受け止めていくべきなのでしょう。
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越前国、志比庄、吉祥山永平禅寺は、仏法禅師道元和尚開闢の真跡にして、勅許の紫衣を賜うの法窟、日本曹洞根起の大本山なり。
二世懐弉、及び徹通、吾が先師瑩山に到り四世、正法展々、支葉聯綿なり。その徒、皆宗乗を演暢し、権実兼ね行う。吾も又、瑩山の示誨を受けて、肇めて永平の的意を得る。吾が法徒、太源・通幻・無端・大徹・実峰、都べて玄門を遠邇に闢き、法輪の枢機を執り、諸宗服膺するは、海の湧くが如く、駆烏為るは、雲の従うが如し。
嗚呼、世尊の正法眼、扶桑独り赫赫たるは、実に元和尚傑出の故なり。故に、児孫深く永平の禅味を甘い、各自法乳の恩を知りて、長えに応に祖山の栄光を憶うべし。もし真跡をして、荒蕪の地に著かしむるは、永平の児孫に不ず、菩薩子勉めよ。
貞治二年八月二十八日 古仏第五の法孫 峨山再礼塔 焚香謹記
永久岳水先生『正法眼蔵物語』(昭和仏教全書)参照、原漢文
ちゃんとした出典から本文を引用したかったのですが、見付からなかったので、永久先生の文章から引いてみたいと思います。これは、大本山總持寺二世として、瑩山禅師の後を継がれた峨山紹碩禅師(1276〜1366)が、貞治2年(1363)8月28日(道元禅師示寂の日)に永平寺を拝登した際、道元禅師をお祀りした承陽塔に対して記された銘文ということになります。一応、道元禅師111回忌ってことになるのでしょうか。何故、この年に拝登されたのかは分かりませんが、ただ、「再礼塔」という言葉から分かるように、少なくとも2度は拝登していることが分かります。
内容については、峨山禅師が道元禅師を讃えた銘文ということになります。また、永平寺についても、勅許の紫衣を賜った日本曹洞宗の根本本山だというのです。当時の本山の基準がどの辺に置かれていたかが分かります。そして、その道元禅師の教えは、懐弉禅師・義介禅師・瑩山禅師と伝えられ、更に峨山禅師に到ったと述懐しておられるのです。確かに、当時の禅僧の修行は、京都を中心とした臨済宗でも修行することが可能でしたし、北陸には曹洞宗が伸びていましたが、京都からすれば、田舎の一宗派という位置付けだったのではないか?と考えられます。ただ、地図を見れば一目瞭然ですが、北陸は京都に近く、当時、日本海側の海運が、今想像するよりも余程盛んだった可能性もありますので、田舎というのは間違っているかもしれません。
また、峨山禅師がおられた總持寺、或いは永光寺は能登(石川県北部)だったわけですが、越前北部(福井県北部)に位置する永平寺とは、遠距離というほどではなく、おそらく、8月28日の高祖忌に合わせて、峨山禅師を始め、總持寺の修行僧が永平寺を拝登したのかもしれません。今風に言えば、「祖山拝登」というところでしょうか。峨山禅師は、銘文の中でも、「峨山五哲」の名前を挙げて、道元禅師の宗風が広く伝えられていく様子を示されていますが、後には通幻禅師の法系に連なる祖師が、永平寺の運営を助けたりしているのです。
峨山禅師は、寺院をよくよく護持するように、繰り返し弟子達に説いていたところがあります。それはやはり、寺院が荒廃すると、僧侶の活動が著しく後退することが良く分かっていたからでしょう。永平寺は、道元禅師寂後、何度もそういう事態に陥ったことが、『建撕記』などの文献から知られます。無論、總持寺もそういう危機に陥ったことは何度かあったのでしょうが、しかし、總持寺は先の「五哲」が開いた五院を中心に維持運営されていました。或る意味、草の根的にその実力を蓄えてきたのが總持寺です。その淵源は、開山である瑩山禅師と、受け嗣いだ峨山禅師の慧眼があってのことだといえます。
「寺院の護持」というと、例えば道元禅師が『正法眼蔵』で仰ったことを思い出される方もおられるかもしれません。
末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるることなかれ、仏祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂・精藍を結構する、またく諸仏に仏宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅とせんがためなり。
「行持(下)」巻
どうしても、寺院の護持、伽藍の整備というと、仏陀への供養という意味を忘れて、ただ自己の名利のためだけに行うという状況に陥るようです。これは気を付けねばなりません。ただ、だからといって、寺院も伽藍も要らないというのは、これもまた間違えています。『梵網経』の四十八軽戒にも、伽藍の整備が唱えられていますけれども、それは道元禅師も好く承知されていました。
右、菩薩戒経に曰く、「若仏子よ、常にまさに一切の衆生を教化し、僧房を建立し、山林園田に仏塔を立作すべし。冬夏の安居、坐禅の処所、一切の行道の処所に、皆これを立つべし。もし爾らざれば、軽垢罪を犯す」と。然して寺院はこれ諸仏の道場なり。
『宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏』
よって、例えばプロテスタント的宗教観ばかりに依存して、伽藍などの物質性を否定し、精神性ばかり強調するというのは、仏教では「極端な教え」として否定すべきでしょう。その辺も「中道」を歩むべきだと、道元禅師、そしてその教えを受け嗣がれた峨山禅師の教えを拝見しながら、拙僧は強く主張しておきたいと思います。
最後に、生没年をご覧いただければ分かりますが、峨山禅師、この時既に80代後半だったのです。その歳に到ってもまだ、祖山の栄光の維持を訴え続ける信念、これをこそ、我々は受け止めていくべきなのでしょう。
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