まぁ、我々は仏教的世界観に生きていることを自覚出来たとき、説法はより観念的となる反面、自由自在に常識や固定観念にとらわれないこととなります。だから、こんな説法もありますよ。
至晩の上堂。
拄杖を拈じて、卓一卓して云く、這箇は是れ大仏の拄杖子。河沙の諸仏、河沙の国土、総て拄杖の一口に呑却せられ了りぬ。その中の衆生、不覚不知なり。
〈中略〉
若し人有って大仏に問わん、如何なるか是れ奇特事、即ち他に向かって対えん、大仏の拄杖、日本国に卓す。卓、一拄杖して下座。
『永平広録』巻2-147上堂
何とも不思議なことです。普通に考えれば、全く理解が出来ません。拄杖というのは、我々僧侶が持つ杖のことです。この杖などを持って説法することがあるのです。そして、道元禅師はその杖で、自分の坐っている法座をドンと一突きしてから、「これは、私の杖だ」といい、そして、「無数の諸仏も、無数の国土も、全てこの杖に、一口に呑み込まれた」というのです。ところが、我々は杖に呑み込まれた自覚がありません。よって、このことは現実の話でありながら、現実に知覚できないのです。
喩え、分類上当て嵌まっても、ただの形而上学や空想でもありません。
杖の上は、仏祖が活動する、まさに舞台そのものなのです。中国禅宗の黄檗希運禅師は、或る時「諸方の老宿、尽く我が拄杖頭上に在り」と述べたと伝えられています。このように、仏祖が用いる「杖の上」は、あらゆる物が入る場所です。それは、要するに仏法の無辺際なる様子を示すものだといえます。虚空と言い換えても良いでしょう。虚空だから無辺際、よって何でも入るわけです。
だから、この「道元禅師の杖の上」というのは、無辺際なる仏法だといっているわけです。
よって、無数の諸仏も、無数の国土も、全て仏法なる事実の中に於いてあるのです。しかし、それに衆生は気付かないのです。何故ならば、衆生だからです。仏法に包まれている事実に気付けない衆生は、この仏法に包まれたる事実のことを、会得しようとしないのです。
道元禅師はここで、「奇特事」を問います。これは、百丈懐海禅師にある者が「奇特事」を尋ねたことから話が進んでいます。「奇特事」ですから、直訳すれば、「珍しきこと」或いは、その意を転じて「価値のある素晴らしきこと」を意味しています。素晴らしきことなのだから、何か特別なことがあるだろうと普通の人なら思うでしょう。しかし、我々禅僧は一切の出来事について、特別視を止めます。
特別視しないのですから、「奇特事」などはありません。いや、あるはあるにしても、それとして分かる奇特なことなどはないというのが正しいでしょうか。道元禅師は上堂の最後、もし誰かが奇特なることとは何かと聞いてきたならば、それに対して、このように答えると述べています。
その答えは、「大仏の拄杖、日本国に卓す」というものでありました。そう仰ると、言葉の通り我らが日本国の上で、杖をドンと一突きすると、すぐに法座から下りられたのです。さて、今日は「建国記念の日」だそうですが、我々禅僧的には、杖を撞くとき毎日が、「建国記念」のようなものです。無論、それも、普通に生きている人からは理解出来ないことかもしれません。まぁ、無理矢理説明しようとも思っていないので、そんな感じかもとご理解ください。理解したところで、杖に呑み込まれている自覚が出てくるわけで無し・・・
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至晩の上堂。
拄杖を拈じて、卓一卓して云く、這箇は是れ大仏の拄杖子。河沙の諸仏、河沙の国土、総て拄杖の一口に呑却せられ了りぬ。その中の衆生、不覚不知なり。
〈中略〉
若し人有って大仏に問わん、如何なるか是れ奇特事、即ち他に向かって対えん、大仏の拄杖、日本国に卓す。卓、一拄杖して下座。
『永平広録』巻2-147上堂
何とも不思議なことです。普通に考えれば、全く理解が出来ません。拄杖というのは、我々僧侶が持つ杖のことです。この杖などを持って説法することがあるのです。そして、道元禅師はその杖で、自分の坐っている法座をドンと一突きしてから、「これは、私の杖だ」といい、そして、「無数の諸仏も、無数の国土も、全てこの杖に、一口に呑み込まれた」というのです。ところが、我々は杖に呑み込まれた自覚がありません。よって、このことは現実の話でありながら、現実に知覚できないのです。
喩え、分類上当て嵌まっても、ただの形而上学や空想でもありません。
杖の上は、仏祖が活動する、まさに舞台そのものなのです。中国禅宗の黄檗希運禅師は、或る時「諸方の老宿、尽く我が拄杖頭上に在り」と述べたと伝えられています。このように、仏祖が用いる「杖の上」は、あらゆる物が入る場所です。それは、要するに仏法の無辺際なる様子を示すものだといえます。虚空と言い換えても良いでしょう。虚空だから無辺際、よって何でも入るわけです。
だから、この「道元禅師の杖の上」というのは、無辺際なる仏法だといっているわけです。
よって、無数の諸仏も、無数の国土も、全て仏法なる事実の中に於いてあるのです。しかし、それに衆生は気付かないのです。何故ならば、衆生だからです。仏法に包まれている事実に気付けない衆生は、この仏法に包まれたる事実のことを、会得しようとしないのです。
道元禅師はここで、「奇特事」を問います。これは、百丈懐海禅師にある者が「奇特事」を尋ねたことから話が進んでいます。「奇特事」ですから、直訳すれば、「珍しきこと」或いは、その意を転じて「価値のある素晴らしきこと」を意味しています。素晴らしきことなのだから、何か特別なことがあるだろうと普通の人なら思うでしょう。しかし、我々禅僧は一切の出来事について、特別視を止めます。
特別視しないのですから、「奇特事」などはありません。いや、あるはあるにしても、それとして分かる奇特なことなどはないというのが正しいでしょうか。道元禅師は上堂の最後、もし誰かが奇特なることとは何かと聞いてきたならば、それに対して、このように答えると述べています。
その答えは、「大仏の拄杖、日本国に卓す」というものでありました。そう仰ると、言葉の通り我らが日本国の上で、杖をドンと一突きすると、すぐに法座から下りられたのです。さて、今日は「建国記念の日」だそうですが、我々禅僧的には、杖を撞くとき毎日が、「建国記念」のようなものです。無論、それも、普通に生きている人からは理解出来ないことかもしれません。まぁ、無理矢理説明しようとも思っていないので、そんな感じかもとご理解ください。理解したところで、杖に呑み込まれている自覚が出てくるわけで無し・・・
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