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文殊・普賢両菩薩の面目如何?(改・或る僧の修行日記1)

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また、今日から名前が変わります。段々『三匹が斬る』も超えつつあるので、題名を考えるのも一苦労ですけど、今回からのは「改」にしてみました。何が改まるのか分かりませんがね・・・

さて、今日は宮城県の仙台にある泰心院に住持していた損翁宗益禅師が詠まれた、菩薩に付された「賛」を確認していきたいと思います。「賛」というのは、文字通り「たたえること」でありまして、仏・菩薩、或いは様々な事象をたたえる内容を持つ漢詩を詠んで、そして捧げるものなのです。今回の場合は文殊菩薩と普賢菩薩でした。

 お師匠さまは、明全尼の求めに応じて、文殊・普賢を描いた小さな絵像二幅に賛を付した。
 その一、文殊菩薩。七仏の師範、郡品の良田、方寸の経巻、大千を含裹す。
 その二、普賢菩薩。象王背上、有空を併呑す、大行願海、波瀾窮まり無し。
 明全尼が没してから後、益光が遺品としてこれを得て、後に余に譲ってくれた。
    面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳

当時の泰心院には、数人の尼僧さんがいたことが知られていますが、明全尼はその1人になります。とはいいましても、具体的な行実は不明です。『見聞宝永記』を見ますと、明らかに修行者達に混じって、活き活きと修行されている様子がうかがえます。多分、泰心院は、そういうアットホームな修行道場だったのでしょう。しかし、堂頭である損翁禅師は厳しくもユーモアを解し、最適な指導者であったため、皆、ほのぼのとしながらも、熱心に修行されたものと思います。

その損翁禅師ですが、基本的に奇を衒わずに、賛などを始めとする漢詩を書いたと、本人が述懐しています。よって、この賛も、余計な技巧や修辞法を用いず、素直に両菩薩の徳を讃える内容です。この両菩薩は、釈迦如来の脇侍として祀られることが多いわけですが、おそらくは明全尼、既に釈迦如来の絵像か何かを持っていて、その両脇に、文殊・普賢を掛けたものと思います。

損翁禅師の賛の内容ですが、まずは文殊菩薩。文殊を、「七仏の師範」だとしています。菩薩なのに、過去仏の師であると讃えているわけです。典拠がありまして、道元禅師は「文殊、乃ち釈尊等の諸仏の師なり」(『宝慶記』第20問答)と述べていますので、この辺から影響を受けた教えでしょう。そして、様々な衆生を良く導く功徳を得られるので、「良田」と讃えており、また、文殊は「大乗経典」を「結集」した菩薩だとも伝えられていますが(『宝慶記』第20問答)、その意味で、文殊が編んだ、たった1センチ四方の経巻には、無限の道理が収められており、大千世界という大きな場所を、全て内に含むとしているのです。文殊の智慧は偉大です。

また、普賢菩薩は、巨大な象の上に乗っている像で描かれることが多いわけですが、それを損翁禅師も指摘し、更には、有や空といった、あらゆる仏教的概念を全て呑み込んでしまうとしています。何故ならば、普賢菩薩は、その智慧の勝れたる様子も重要ですが、もっと重要なのは、「願行」体としての有り様です。願いに基づく修行を行うことによって、あらゆる衆生を救済し続けるのです。この辺は、『妙法蓮華経』の「結経」としても知られている『観普賢菩薩行法経』をご覧いただくと良いでしょう。

さて、この2幅の両菩薩像、並びに賛ですが、明全尼が亡くなってから、損翁禅師の弟子の1人である益光和尚が、遺品として得たそうです。当時は、或る僧が無くなると、その周囲にいた僧達が、遺品として受け継ぐというのが一般的でした。詳しくは書かれていませんが、道元禅師『永平寺知事清規』「維那」項にも、遺品の扱いについて指摘されていますので、禅林では伝統的なことであったとできましょう。そして、さらにそれは、損翁禅師の遺弟の1人である面山禅師にもたらされたようです。正しく師の想いを受け継ぐ人達の間で、師に因む遺品が受け継がれていくことは、徒なる散逸を防ぐことにもなりますね。

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