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Channel: つらつら日暮らし
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今日は旧暦なら「閉炉の日」

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現在の暦の関係で、『曹洞宗行持軌範』では4月1日に定めている「閉炉の日」ですが、かつては3月1日に行われていました。なお、いきなり何のことか分からない人も多いと思うので、急いで註を付しておきますと、「炉」というのは、今でいう「ストーブ」のことです。主に、僧堂を中心に、修行僧が多く集まる場所には、必ず設置されたもので、炭を焚いて部屋を暖めていました。まぁ、今の最先端の暖房装置に比べてたら、文字通り「お寒い限り」だったとは思いますけれども、修行僧たちは凍てつく道場の中で、この暖炉の火を尊んだのです。

三月一日。閉炉節と称す。僧堂及び諸寮は閉炉す。大衆、出仕するに頭帽を脱ぎ、叉手を露わにす。
    瑩山紹瑾禅師瑩山清規』「年中行事」

この日から、僧侶は、それまでの「冬仕様の格好」を改めて、春仕様にしていきます。そのために、帽子を被って坐禅していたのを止め、叉手も「衣手」から出すのです。なお、この「炉」に因む「開炉・閉炉」の日には、「炉」そのものを仏法とし、中で焚かれる「火」そのものを、自己に具わる「仏性」として参究するための機縁ともしたのです。

閉炉の上堂。一枚の円相、春に向かって到る。開閉の時に臨んで画図に似たり。炭を添え灰を見て点雪を兼ねる。衲僧、喚んで是れを紅炉と作す。
    『永平広録』巻7-489上堂

これは、道元禅師晩年、建長4年(1252)に行われたものだと考えられている上堂です。よって、その年の3月1日に行われているわけです。同年11月には、道元禅師の上堂は終了してしまいますので、明らかに、最後の「閉炉上堂」といえます。さて、ここで道元禅師がいわれていることとは何でしょうか?それは、まず「一枚の円相」を明らかにするところから始めなくてはなりません。「円相」というのは、欠けることなき様子を示すもので、仏法そのものを指します。よって、仏法が春に向かって到っていると指摘しているのです。

現在でいえば、4月上旬くらいの話ですので、越前もかなり暖かかったと見るべきでしょう。そして、更に、仏法は「開閉」に臨んで、画図となったのです。「開閉」というのは勿論、「炉」の話です。炉を開き、炉を閉じる、このことを修行者は1つの「公案」として、当時は取り組んでいます(良くいわれる、「道元禅師が公案を用いなかった」というのは、ほとんど「神話的理解」であり、実際には、「公案」を用いていたと見て良い。ただ、幾つかの状況があって、まずは、「坐禅の時に公案をしなかった」ということは事実であり、また、公案を謎解きして仏法を会得するとも思っていなかった。仏法を得る「力」は「坐」にこそある。では、何故用いたのかといえば、「公案」というのは、仏法に対する「判例」のようなもので、先人が仏法を得た状況を活写して、「規範」として言語化したものでもある。よって、判例・規範を参考にして、正しく仏法に到るのは、当然のことであり、その意味での公案依用はあったと見るべきである。それが「上堂」となり、『正法眼蔵』となったのだ)。

「画図」というのは、「描かれた絵」ということです。つまり、仏法とは、炉の開閉に及び、さもそれを描いた絵のように見易いというのです。では、その真実の姿とは何でしょうか?それこそ、炭を添える如く、仏性に修行を合致させていけば、その修行は、証として「灰」になっていきますが、これは雪の如く、真っ白で、炭は一面灰の世界に与えられた一時的な異物、しかし、それは必ず、元の色になるのです。これはまさに、本証妙修の当体を示した好語といえましょう。

道元禅師は、そのような修行が行われる「場所」を「紅炉」と喚ばれました。それはまさに、「炉の中」に限定されず、我々の修行の継続がなされる、この場所をこそ指しているのです。現在の暦であれば、四月1日が該当しますので、皆さまも中々ストーブを手放せない状況の地域も多いことでしょう。今日は、旧暦に従って記事にしましたので、或る意味、この記事で書いたような参究が出来る日が、一刻も早く来るように祈念して、しばし、冬を生きてくださいましたら幸いです。

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