今日3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」であります。ありがとうというと、我々仏教徒に思い出されるのは、以下の文脈の様な事態でありましょう。
しるべし、礼拝は正法眼蔵なり、正法眼蔵は大陀羅尼なり。請益のときの拝は、近来おほく頓一拝をもちいる、古儀は三拝なり。法益の謝拝、かならずしも九拝・十二拝にあらず、あるひは三拝、あるひは触礼一拝なり、あるひは六拝あり。ともにこれ稽首拝なり。西天にはこれらを、最上礼拝となづく。あるひは六拝あり、頭をもて地をたたく。いはく、額をもて地にあててうつなり、血のいづるまでもす。これにも展坐具せるなり。一拝・三拝・六拝、ともに額をもて地をたたくなり。あるひはこれを頓首拝となづく。世俗にもこの拝あるなり、世俗には九品の拝あり。法益のとき、また不住拝あり。いはゆる、礼拝してやまざるなり、百千拝までもいたるべし。ともにこれら、仏祖の会にもちいきたれる拝なり。
『正法眼蔵』「陀羅尼」巻、下線は拙僧
下線部に注目していただきたいと思いますが、もし、法益(師匠から、仏法について教授を受けること)があった場合には、それに対して「謝拝」をする必要があるということです。最近では、「謝拝」というと、どうしても、自坊の法要に、他山から拝請した方に対して、御礼をするというイメージが強いわけですが、実際には、法の潤いをもたらしてくれたことに対する御礼と解釈せられなければならないところです。
先ほど「法要」といいました。お経が分かりにくい、何をやっているか分からない、と一般の方から批判を招くこともある、我々の行持ではありますが、そういう「分かりやすさ」とは全く違うレベルで、我々は法の潤いを、その儀式の参加者にもたらしています。それは、正しく定められた方法によって行われる行持であるということです。正しく定めるのは仏祖です。仏祖が、それまでの伝統に則って定めた方法によって行われるから、その行がそのまま法の潤いになるのです。
仏道に於いて御礼をいう時、御礼をする時、それは、相手個人に対して行うのではないのです。その人によって現ぜられた法に対して行うのです。だからこそ、我々自身の御礼のための礼拝は、同時に「正法眼蔵」であるのです。法に契った行いをするということは、道理に従った物の考え方、行動をするということです。道理に従わずに、自ら決めてしまうことを「私案」や「私曲」といいます。前者は、個人的な思いつきということですが、後者はそれよりも意味が強くて、独断で道理を曲げてしまうということです。
我々仏道修行者は、個人的な思いつきなど、所詮は大した力がないと分かっています。何故ならば、相手は「吾我」の介入を許さない「大道」だからです。問題は、吾我を抛って、名利心を持つことなく、志気を蓄えてただ学ぶということだけなのです。ところが、それが容易に実践されないことから、我々にとって仏道は、「あいがたい」ものとなってしまいます。
いまも、名利にかかはらざらん真実の参学は、かくのごときの志気をたつべきなり。遠方の近来は、まことに仏法を求覓する人まれなり。なきにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家児となり、離俗せるににたるも、仏道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべし、かなしむべし、この光陰をおしまず、むなしく黒暗業に売買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。
『正法眼蔵』「渓声山色」巻
「ありがたさ」と「あいがたさ」は、仏道に於いては同じことといって良いでしょう。あいがたいからありがたい、ありがたいからあいがたいわけです。しかし、ここで道元禅師が歎いておられるように、当時、真実に仏法を求める人が稀です。今も同じ状況でありましょう。仏道を学んでいながら、いつの間にか、名声を得たいと思っているに過ぎない人は、決して珍しくないはずです。それは、拙僧自身も決して逃れることが出来ない誘惑であります。ただ、絶対に、名利に陥ってはならないわけです。
「名利」に陥る場合には、他人への感謝がありません。何故ならば、何ごとも全て自ら自身のために行ってしまうからです。結果的に、自利のみを目指すことにもなっていきます。菩薩行の出ようもありません。「利他」というのは、やはり我こそは、という思いを抛って、他のために尽くすわけです。その原動力となっているのが、一方では慈悲であり、一方では感謝であるといえましょう。それは、中々学ぶことが出来ない仏法を学ぶことが出来たという思いが、自ずと感謝の心を導き出すからです。感謝の心とともに学べるとき、我々は、「これで分かった」という思いなどが出てこようもありません。いわば、増上慢にならずに済むということです。もっと自然に、肩肘を張らずに学ぶことが出来ることでしょう。
今日のような日だからこそ、改めて自然で謙虚な学びを行えるように、感謝の気持ちを起こすのは大切なことだと思うわけです。
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しるべし、礼拝は正法眼蔵なり、正法眼蔵は大陀羅尼なり。請益のときの拝は、近来おほく頓一拝をもちいる、古儀は三拝なり。法益の謝拝、かならずしも九拝・十二拝にあらず、あるひは三拝、あるひは触礼一拝なり、あるひは六拝あり。ともにこれ稽首拝なり。西天にはこれらを、最上礼拝となづく。あるひは六拝あり、頭をもて地をたたく。いはく、額をもて地にあててうつなり、血のいづるまでもす。これにも展坐具せるなり。一拝・三拝・六拝、ともに額をもて地をたたくなり。あるひはこれを頓首拝となづく。世俗にもこの拝あるなり、世俗には九品の拝あり。法益のとき、また不住拝あり。いはゆる、礼拝してやまざるなり、百千拝までもいたるべし。ともにこれら、仏祖の会にもちいきたれる拝なり。
『正法眼蔵』「陀羅尼」巻、下線は拙僧
下線部に注目していただきたいと思いますが、もし、法益(師匠から、仏法について教授を受けること)があった場合には、それに対して「謝拝」をする必要があるということです。最近では、「謝拝」というと、どうしても、自坊の法要に、他山から拝請した方に対して、御礼をするというイメージが強いわけですが、実際には、法の潤いをもたらしてくれたことに対する御礼と解釈せられなければならないところです。
先ほど「法要」といいました。お経が分かりにくい、何をやっているか分からない、と一般の方から批判を招くこともある、我々の行持ではありますが、そういう「分かりやすさ」とは全く違うレベルで、我々は法の潤いを、その儀式の参加者にもたらしています。それは、正しく定められた方法によって行われる行持であるということです。正しく定めるのは仏祖です。仏祖が、それまでの伝統に則って定めた方法によって行われるから、その行がそのまま法の潤いになるのです。
仏道に於いて御礼をいう時、御礼をする時、それは、相手個人に対して行うのではないのです。その人によって現ぜられた法に対して行うのです。だからこそ、我々自身の御礼のための礼拝は、同時に「正法眼蔵」であるのです。法に契った行いをするということは、道理に従った物の考え方、行動をするということです。道理に従わずに、自ら決めてしまうことを「私案」や「私曲」といいます。前者は、個人的な思いつきということですが、後者はそれよりも意味が強くて、独断で道理を曲げてしまうということです。
我々仏道修行者は、個人的な思いつきなど、所詮は大した力がないと分かっています。何故ならば、相手は「吾我」の介入を許さない「大道」だからです。問題は、吾我を抛って、名利心を持つことなく、志気を蓄えてただ学ぶということだけなのです。ところが、それが容易に実践されないことから、我々にとって仏道は、「あいがたい」ものとなってしまいます。
いまも、名利にかかはらざらん真実の参学は、かくのごときの志気をたつべきなり。遠方の近来は、まことに仏法を求覓する人まれなり。なきにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家児となり、離俗せるににたるも、仏道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべし、かなしむべし、この光陰をおしまず、むなしく黒暗業に売買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。
『正法眼蔵』「渓声山色」巻
「ありがたさ」と「あいがたさ」は、仏道に於いては同じことといって良いでしょう。あいがたいからありがたい、ありがたいからあいがたいわけです。しかし、ここで道元禅師が歎いておられるように、当時、真実に仏法を求める人が稀です。今も同じ状況でありましょう。仏道を学んでいながら、いつの間にか、名声を得たいと思っているに過ぎない人は、決して珍しくないはずです。それは、拙僧自身も決して逃れることが出来ない誘惑であります。ただ、絶対に、名利に陥ってはならないわけです。
「名利」に陥る場合には、他人への感謝がありません。何故ならば、何ごとも全て自ら自身のために行ってしまうからです。結果的に、自利のみを目指すことにもなっていきます。菩薩行の出ようもありません。「利他」というのは、やはり我こそは、という思いを抛って、他のために尽くすわけです。その原動力となっているのが、一方では慈悲であり、一方では感謝であるといえましょう。それは、中々学ぶことが出来ない仏法を学ぶことが出来たという思いが、自ずと感謝の心を導き出すからです。感謝の心とともに学べるとき、我々は、「これで分かった」という思いなどが出てこようもありません。いわば、増上慢にならずに済むということです。もっと自然に、肩肘を張らずに学ぶことが出来ることでしょう。
今日のような日だからこそ、改めて自然で謙虚な学びを行えるように、感謝の気持ちを起こすのは大切なことだと思うわけです。
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