江戸時代初期の曹洞宗が輩出した傑僧、損翁宗益禅師が「宗統復古運動」をどう評価しておられたかを見ていく連載内連載記事です。
(江戸にて)参じていたときに、お師匠さまがいわれるには「師資面授の一件については、既に官からの裁決が出た。(これで)永平門下には、仏日が更に輝きを増すことであろう。その面授とは、何てことはない。今ここで、山僧(=私)と、そなたとが、顔と顔を合わせて、眼と眼で互いに照らし観て、仏祖正伝の気息を通ずることをいうのである。これが、どうして、遙かに隔てて法を付したり、師に代わって法を付したりする者達が成ずることが出来ようか。インドでの祖師28代、中国での祖師23世、(全てが)このような様子であったのだ。
しかし、永平門下は、ここ200年来、伽藍相続の弊を生じてしまい、寺に因って師を易えてしまっていた。非法の極みというべきである。しかし、卍山老人は、生涯を掛ける大願をもって、今、面授の正統に復したのである。卍山老人は、実に、日本曹洞宗の中興である。
これより後は、一師からの印証を帯びた者は、どれほどの多くの寺に移り住んでも、最後まで最初の伝法の本師を易えてはならないのである。これこそ、卍山老人の遺された功徳であり、大法を担う者は、必ずこの優れた行いを慕うべきである。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
この問答ですが、行われた時期としては、損翁禅師が「既に官からの裁決が出た」とあることから、元禄16年(1703)8月7日以降のことであることが分かります。この連載(2)より数ヶ月後ということになります。面山師、まだ正式な入門をしているわけはなかったようで、時間的には飛び飛びだったようです。ただ、(1)でも申し上げましたが、損翁禅師は面山師に対して、度々その得たところを確認しに来るように促していますので、面山師にとって敷居は低かったものと思います。師の方で、ハードルを高くしておいた方が良いときと、低い方が良いときと、色々と違いがあります。ただ、弟子の側が、必至になりすぎて、自分の力量を見せ付けてやろうという場合には、師の方はハードルをウンと高くしておいた方が良いです。盤珪永琢禅師にそのような接化法が見えます。
一方で、弟子の側が、真心でもって師の示誡を頂戴したいと願って来ている場合には、ハードルを無くしておいた方が良いでしょう。例えば、一例として、道元禅師の本師である如浄禅師の言葉が知られます。
元子が参問、自今已後、昼夜・時候に拘わらず、著衣・衩衣、而も方丈に来たって道を問わんこと妨げ無し。老僧は親父が無礼を恕すに一如せん。太白〈某甲〉
『宝慶記』冒頭
道元禅師は、この如浄禅師の許可によって、何度も何度も方丈に上り、親しく指導を受ける様子が『宝慶記』からは伝わってきます。無論、『正法眼蔵』「諸法実相」巻に於ける「入室」の方法を見る限り、正式な指導も、他の大衆とともに受けていたことでしょう。そのように、親しく指導を受けることをこそ、面授とはいうわけです。それをせずに、「寺に因って師を易える」ような振る舞いは、何のために仏道を学んでいるか分かりません。
その意味に於いて、損翁禅師が指摘するように、殊に宗統ということについては、卍山禅師は確かに、日本曹洞宗の中興でありました。そして、この運動の後、曹洞宗では多くの論争が起きました。「和合僧」ということを強調する人、或いは、無諍・不戯論ということに価値を見出す人であれば、論争の惹起自体を問題視するのかもしれませんが、しかし、論争があるからこそ、歴史の進展があるともいえます。そして、今に繋がる宗学の基礎が、この頃に作られたのです。その意味でも、卍山禅師の活動は大きく、それを同時代的に端で見ていた損翁禅師の言葉は、なるほど、元々同心していたことを差し引いても、卍山禅師の業績の大きさが伝わってくるようです。
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(江戸にて)参じていたときに、お師匠さまがいわれるには「師資面授の一件については、既に官からの裁決が出た。(これで)永平門下には、仏日が更に輝きを増すことであろう。その面授とは、何てことはない。今ここで、山僧(=私)と、そなたとが、顔と顔を合わせて、眼と眼で互いに照らし観て、仏祖正伝の気息を通ずることをいうのである。これが、どうして、遙かに隔てて法を付したり、師に代わって法を付したりする者達が成ずることが出来ようか。インドでの祖師28代、中国での祖師23世、(全てが)このような様子であったのだ。
しかし、永平門下は、ここ200年来、伽藍相続の弊を生じてしまい、寺に因って師を易えてしまっていた。非法の極みというべきである。しかし、卍山老人は、生涯を掛ける大願をもって、今、面授の正統に復したのである。卍山老人は、実に、日本曹洞宗の中興である。
これより後は、一師からの印証を帯びた者は、どれほどの多くの寺に移り住んでも、最後まで最初の伝法の本師を易えてはならないのである。これこそ、卍山老人の遺された功徳であり、大法を担う者は、必ずこの優れた行いを慕うべきである。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
この問答ですが、行われた時期としては、損翁禅師が「既に官からの裁決が出た」とあることから、元禄16年(1703)8月7日以降のことであることが分かります。この連載(2)より数ヶ月後ということになります。面山師、まだ正式な入門をしているわけはなかったようで、時間的には飛び飛びだったようです。ただ、(1)でも申し上げましたが、損翁禅師は面山師に対して、度々その得たところを確認しに来るように促していますので、面山師にとって敷居は低かったものと思います。師の方で、ハードルを高くしておいた方が良いときと、低い方が良いときと、色々と違いがあります。ただ、弟子の側が、必至になりすぎて、自分の力量を見せ付けてやろうという場合には、師の方はハードルをウンと高くしておいた方が良いです。盤珪永琢禅師にそのような接化法が見えます。
一方で、弟子の側が、真心でもって師の示誡を頂戴したいと願って来ている場合には、ハードルを無くしておいた方が良いでしょう。例えば、一例として、道元禅師の本師である如浄禅師の言葉が知られます。
元子が参問、自今已後、昼夜・時候に拘わらず、著衣・衩衣、而も方丈に来たって道を問わんこと妨げ無し。老僧は親父が無礼を恕すに一如せん。太白〈某甲〉
『宝慶記』冒頭
道元禅師は、この如浄禅師の許可によって、何度も何度も方丈に上り、親しく指導を受ける様子が『宝慶記』からは伝わってきます。無論、『正法眼蔵』「諸法実相」巻に於ける「入室」の方法を見る限り、正式な指導も、他の大衆とともに受けていたことでしょう。そのように、親しく指導を受けることをこそ、面授とはいうわけです。それをせずに、「寺に因って師を易える」ような振る舞いは、何のために仏道を学んでいるか分かりません。
その意味に於いて、損翁禅師が指摘するように、殊に宗統ということについては、卍山禅師は確かに、日本曹洞宗の中興でありました。そして、この運動の後、曹洞宗では多くの論争が起きました。「和合僧」ということを強調する人、或いは、無諍・不戯論ということに価値を見出す人であれば、論争の惹起自体を問題視するのかもしれませんが、しかし、論争があるからこそ、歴史の進展があるともいえます。そして、今に繋がる宗学の基礎が、この頃に作られたのです。その意味でも、卍山禅師の活動は大きく、それを同時代的に端で見ていた損翁禅師の言葉は、なるほど、元々同心していたことを差し引いても、卍山禅師の業績の大きさが伝わってくるようです。
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