今日は「十重禁戒」の4回目です。
今日は、不妄語戒になります。良く、不妄語戒と不説過戒とを誤解する人がいるので、注意喚起しておきたいと思いますが、前者は「道理に契わない語を言わない」という戒であり、後者は「他人の過ちをあげつらわない」という戒です。ところで、これは、十善戒にも入っているのですが、十善戒は「身三口四意三」と分類されるように、身口意の三業に対して、それぞれ10個の項目を割り振ります。そうなると、第四に置かれる不妄語戒は、十善戒でも「口」に対する戒めとして理解したくなります。しかし、それほど単純な話ではないようです。
此戒口門のみならず、身の妄語あり、心の妄語あり。身の妄語とは、位ひきき者の高貴の儀をなす。内はづる事あるに強て平常の顔をつくる類なり。心の妄語とは、みづからかく有べしとおもひ定しことを、後みだりに改る類なり。
慈雲尊者飲光『人となる道』、日本古典文学大系『仮名法語集』383頁
これを見ると、慈雲尊者は身にも心にも妄語があるといっています。その内容を詳しく見ていくと、「詐るか否か」というのが、この戒の本質として問われていることが分かります。そう考えると、1つ重大な問題に突き当たります。我々は、そもそも何から何を「詐る」のか?ということです。例えば、妄語というと、我々自身が何かしら学んだ仏の教えを他人に伝える、その時に間違ってしまう、とか考えてしまいがちです。『梵網経』の本文を見ても、それはそうです。
なんじ仏子、自ら妄語し、人を教えて妄語せしめ、方便して妄語せば、妄語の因・妄語の縁・妄語の法・妄語の業あらん。乃至、見ざると見たりと言い、見たりを見ざると言い、身心に妄語す。而も菩薩は常に正語・正見を生じ、亦、一切衆生の正語・正見を生ぜしむべし。而るを反って更に一切衆生の邪語・邪見・邪業を起こさしめば、是れ菩薩の波羅夷罪なり。
第四不妄語戒
ここでは、菩薩は正しい言葉を用い、正しい見解を用い、それにより、一切衆生に正しい言葉を用いさせ、正しい見解を生じさせるべきだというわけです。その反対は、波羅夷罪とまでいっています。ただ、ここで重大なことに気付きます。それは、そもそも菩薩としての我々が、どのように正語・正見を用いるのか?ということです。ただ、「正語」にしても、「何かを語る」わけです。「正見」にしても、「何かを見る」わけです。対象となる「何か」は常に残り続けます。或いは我々の語りや見解は、常に「何かについて」の働きかけです。ただ、そこまで考えたとき、その我々にとっての「対象」とは、正しくはないのでしょうか?存在は存在として間違っていたりするのでしょうか?
現今に明歴々たるもの、天地神祇、山川草木、ことごとく誠のあらはれし姿なり。この身詐偽なく、此心詐偽なし。これを真実語と云。
『人となる道』、前掲同著382頁
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名にまで選ばれた「渓声山色」、そして「山水経」、そのいわんとすることは、まさにここで慈雲尊者がいっていることと同じになります。「ことごとく誠のあらはれし姿」なのです。それを表現すれば、渓声が仏陀の説法となり、山色は仏陀の姿となり、山水は経となるのです。よって、我々はただ、何も加工せずに、それをそのまま教えてやればいい、そうすれば、「私の都合」など差し挟む余地もないことが分かり、一切全てが「真実語」になるのです。道元禅師の直弟子、孫弟子が記した『梵網経』の註釈書(精確には、『仏祖正伝菩薩戒教授戒文』への註釈)には、この「真実」と「妄」との関係について、詳しい解説があります。この記事はそれを見ていくことで、「真実」の把握に努めたいと思います。
又真妄にしなじなあり。世間に付て云へば、妄の中の妄、妄の中の真。出世に付て云へば、真の中の妄、真の中の真也。
妄の中の妄と云は、衆生界の依正は能生の法、皆妄なるがゆへに、所生の法も、皆妄也。然者、山を見て山を見たりと云も妄也。実ととるべきに非ず。山を見て山を見ずと云、又、是妄の中の妄なるべし。
妄が中の真と云は、山を見て山を見たりと云。此山此見、共に妄也と云へども、妄の方よりは、山を見て山を見たりと云は、真なるがゆへに、妄が中の真なるべし。
真の中の妄と云は、対機の説を云。是、本意に非ざるがゆへに、真の中の妄なるべし。
真の中の真と云は、十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三、除仏方便説也。是、真の中の真なるべし。
しかあれば、世間に付て此戒を犯ば、妄の上に妄をかさぬるがゆへに、有為の中に悪果を感ず。
又、持すれば、妄の中の真なるがゆへに、有為の中の善果を感ずる也。
出世に付て此戒ををかすと云は、方便の説を信じて長く小法(註:小乗の教え)に著するやからなり。此咎に依ては、敗種の二乗ときらはるる也。
方便を方便としる、是、真の中の真なるべし。今、或従知識、或従経巻するときは、妄相の中より生ずと云へども、妄相と知て妄相を解脱して、妄相を妄相ならしむるなり。
『梵網経略抄』「第四不妄語」
ここでは、世間(一般的な見解)でいわれるところの「真妄」と、出世間(出世というのは、出世間ということ。仏道修行者[僧侶]の見解)でいわれるところの「真妄」が比較的にいわれています。先に示した『梵網経』本文でも言われている「見ざると見たりと言い、見たりを見ざると言い、身心に妄語す」という一文が敷衍される形で、このようにいわれています。要するに、我々に於いて現象する現象を、どのように「観」ずるかが問われているのです。ただ、山を山と見るという発想もあるかもしれませんが、それはあくまでも、この迷いの見解の中で、そのように思い込んでいるだけですので、思い込みが解消されない間は、山は山であるといっても迷いなのです。それは「妄の中の真」です。しかし、知ったフリをして、山を見て山を見ずといってみても、それこそ「妄の中の妄」なのです。
では、「真」に基づく見解というのは何かといえば、それは対機・方便の説ということです。つまり、真の真というのは、我々の言説すら届かない物ですが、それをそれと知りつつも、敢えて発せられた教えが、対機・方便の説です。また、対機を知って、あくまでも「唯一乗法」に到ることを、「真の中の真」といえます。しかし、方便を方便と知ることが出来ず、その方便の説(ここでは、声聞・縁覚の二乗が想定されています)に把われてしまうことを、「真の中の妄」というのです。方便・対機と知りつつ、また、修行や証果という日々の行いもまた、虚妄でありながら、しかし、それを除くことが出来ないとしって、その中で修証することは、「妄相の解脱」であります。
修証が虚妄であると知って、それを行わないのは天然外道に陥ります。修証が虚妄であると知って、その上で行うことは、古来より仏祖が「修証は無きに非ず、染汚すれば即ち得ず」と仰る道理に究尽されます。つまり、虚妄が虚妄であることを知りつつ、それを除くことが出来ない、それをカントがいうところの「超越論的仮象」に準え、「超越論的虚妄」とはいわれるのです。
然者、流転生死の前には、妄にあらざる一塵なく、仏眼仏智の前には真に非ざる一法なし。故、真妄二にあらず。更に、妄の外に真を求むべからず。
『梵網経略抄』「第四不妄語」
流転生死を続ける迷妄なる衆生にとっては、一切の事象は常に妄であり続けます。しかし、仏縁に触れて、発心修行するその継続の中に於いて構築される仏眼仏智の前には、逆に一切の事象は常に真であり続けます。よって、対象の問題ではないのです。あくまでも、修証する主体の問題となるのです。修証する主体が、仏道の軌範によって修証し続ける場合には、それこそが「不妄語」なのです。しかし、それをそれと知らず、徒にこの妄なる世界の「外」に真を求めたり、或いは、修証を退転してしまうことにより、渓声山色に耳を鎖し眼を鎖し、山水経を読もうとしないこと、それをこそ「妄語」とはいうのです。
我々は、仏道修行をして、山水経を読むのではないのです。仏道の修証、即ち、山水経の読誦看経とはなるのです。もし、修行の結果として、読むことが出来ると思うのは、結局はその修行は染汚の行となり、仏道修行の退転なのです。しかし、修証が即ち読むことと把捉するのは、その修行は読むための修行ではなくて、あくまでも修証は修証で究尽するのみであり、その時、即ち山水経は山水経として究尽するのです。よって、「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり」(道元禅師『正法眼蔵』「山水経」巻)とはいわれるのです。
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
今日は、不妄語戒になります。良く、不妄語戒と不説過戒とを誤解する人がいるので、注意喚起しておきたいと思いますが、前者は「道理に契わない語を言わない」という戒であり、後者は「他人の過ちをあげつらわない」という戒です。ところで、これは、十善戒にも入っているのですが、十善戒は「身三口四意三」と分類されるように、身口意の三業に対して、それぞれ10個の項目を割り振ります。そうなると、第四に置かれる不妄語戒は、十善戒でも「口」に対する戒めとして理解したくなります。しかし、それほど単純な話ではないようです。
此戒口門のみならず、身の妄語あり、心の妄語あり。身の妄語とは、位ひきき者の高貴の儀をなす。内はづる事あるに強て平常の顔をつくる類なり。心の妄語とは、みづからかく有べしとおもひ定しことを、後みだりに改る類なり。
慈雲尊者飲光『人となる道』、日本古典文学大系『仮名法語集』383頁
これを見ると、慈雲尊者は身にも心にも妄語があるといっています。その内容を詳しく見ていくと、「詐るか否か」というのが、この戒の本質として問われていることが分かります。そう考えると、1つ重大な問題に突き当たります。我々は、そもそも何から何を「詐る」のか?ということです。例えば、妄語というと、我々自身が何かしら学んだ仏の教えを他人に伝える、その時に間違ってしまう、とか考えてしまいがちです。『梵網経』の本文を見ても、それはそうです。
なんじ仏子、自ら妄語し、人を教えて妄語せしめ、方便して妄語せば、妄語の因・妄語の縁・妄語の法・妄語の業あらん。乃至、見ざると見たりと言い、見たりを見ざると言い、身心に妄語す。而も菩薩は常に正語・正見を生じ、亦、一切衆生の正語・正見を生ぜしむべし。而るを反って更に一切衆生の邪語・邪見・邪業を起こさしめば、是れ菩薩の波羅夷罪なり。
第四不妄語戒
ここでは、菩薩は正しい言葉を用い、正しい見解を用い、それにより、一切衆生に正しい言葉を用いさせ、正しい見解を生じさせるべきだというわけです。その反対は、波羅夷罪とまでいっています。ただ、ここで重大なことに気付きます。それは、そもそも菩薩としての我々が、どのように正語・正見を用いるのか?ということです。ただ、「正語」にしても、「何かを語る」わけです。「正見」にしても、「何かを見る」わけです。対象となる「何か」は常に残り続けます。或いは我々の語りや見解は、常に「何かについて」の働きかけです。ただ、そこまで考えたとき、その我々にとっての「対象」とは、正しくはないのでしょうか?存在は存在として間違っていたりするのでしょうか?
現今に明歴々たるもの、天地神祇、山川草木、ことごとく誠のあらはれし姿なり。この身詐偽なく、此心詐偽なし。これを真実語と云。
『人となる道』、前掲同著382頁
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名にまで選ばれた「渓声山色」、そして「山水経」、そのいわんとすることは、まさにここで慈雲尊者がいっていることと同じになります。「ことごとく誠のあらはれし姿」なのです。それを表現すれば、渓声が仏陀の説法となり、山色は仏陀の姿となり、山水は経となるのです。よって、我々はただ、何も加工せずに、それをそのまま教えてやればいい、そうすれば、「私の都合」など差し挟む余地もないことが分かり、一切全てが「真実語」になるのです。道元禅師の直弟子、孫弟子が記した『梵網経』の註釈書(精確には、『仏祖正伝菩薩戒教授戒文』への註釈)には、この「真実」と「妄」との関係について、詳しい解説があります。この記事はそれを見ていくことで、「真実」の把握に努めたいと思います。
又真妄にしなじなあり。世間に付て云へば、妄の中の妄、妄の中の真。出世に付て云へば、真の中の妄、真の中の真也。
妄の中の妄と云は、衆生界の依正は能生の法、皆妄なるがゆへに、所生の法も、皆妄也。然者、山を見て山を見たりと云も妄也。実ととるべきに非ず。山を見て山を見ずと云、又、是妄の中の妄なるべし。
妄が中の真と云は、山を見て山を見たりと云。此山此見、共に妄也と云へども、妄の方よりは、山を見て山を見たりと云は、真なるがゆへに、妄が中の真なるべし。
真の中の妄と云は、対機の説を云。是、本意に非ざるがゆへに、真の中の妄なるべし。
真の中の真と云は、十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三、除仏方便説也。是、真の中の真なるべし。
しかあれば、世間に付て此戒を犯ば、妄の上に妄をかさぬるがゆへに、有為の中に悪果を感ず。
又、持すれば、妄の中の真なるがゆへに、有為の中の善果を感ずる也。
出世に付て此戒ををかすと云は、方便の説を信じて長く小法(註:小乗の教え)に著するやからなり。此咎に依ては、敗種の二乗ときらはるる也。
方便を方便としる、是、真の中の真なるべし。今、或従知識、或従経巻するときは、妄相の中より生ずと云へども、妄相と知て妄相を解脱して、妄相を妄相ならしむるなり。
『梵網経略抄』「第四不妄語」
ここでは、世間(一般的な見解)でいわれるところの「真妄」と、出世間(出世というのは、出世間ということ。仏道修行者[僧侶]の見解)でいわれるところの「真妄」が比較的にいわれています。先に示した『梵網経』本文でも言われている「見ざると見たりと言い、見たりを見ざると言い、身心に妄語す」という一文が敷衍される形で、このようにいわれています。要するに、我々に於いて現象する現象を、どのように「観」ずるかが問われているのです。ただ、山を山と見るという発想もあるかもしれませんが、それはあくまでも、この迷いの見解の中で、そのように思い込んでいるだけですので、思い込みが解消されない間は、山は山であるといっても迷いなのです。それは「妄の中の真」です。しかし、知ったフリをして、山を見て山を見ずといってみても、それこそ「妄の中の妄」なのです。
では、「真」に基づく見解というのは何かといえば、それは対機・方便の説ということです。つまり、真の真というのは、我々の言説すら届かない物ですが、それをそれと知りつつも、敢えて発せられた教えが、対機・方便の説です。また、対機を知って、あくまでも「唯一乗法」に到ることを、「真の中の真」といえます。しかし、方便を方便と知ることが出来ず、その方便の説(ここでは、声聞・縁覚の二乗が想定されています)に把われてしまうことを、「真の中の妄」というのです。方便・対機と知りつつ、また、修行や証果という日々の行いもまた、虚妄でありながら、しかし、それを除くことが出来ないとしって、その中で修証することは、「妄相の解脱」であります。
修証が虚妄であると知って、それを行わないのは天然外道に陥ります。修証が虚妄であると知って、その上で行うことは、古来より仏祖が「修証は無きに非ず、染汚すれば即ち得ず」と仰る道理に究尽されます。つまり、虚妄が虚妄であることを知りつつ、それを除くことが出来ない、それをカントがいうところの「超越論的仮象」に準え、「超越論的虚妄」とはいわれるのです。
然者、流転生死の前には、妄にあらざる一塵なく、仏眼仏智の前には真に非ざる一法なし。故、真妄二にあらず。更に、妄の外に真を求むべからず。
『梵網経略抄』「第四不妄語」
流転生死を続ける迷妄なる衆生にとっては、一切の事象は常に妄であり続けます。しかし、仏縁に触れて、発心修行するその継続の中に於いて構築される仏眼仏智の前には、逆に一切の事象は常に真であり続けます。よって、対象の問題ではないのです。あくまでも、修証する主体の問題となるのです。修証する主体が、仏道の軌範によって修証し続ける場合には、それこそが「不妄語」なのです。しかし、それをそれと知らず、徒にこの妄なる世界の「外」に真を求めたり、或いは、修証を退転してしまうことにより、渓声山色に耳を鎖し眼を鎖し、山水経を読もうとしないこと、それをこそ「妄語」とはいうのです。
我々は、仏道修行をして、山水経を読むのではないのです。仏道の修証、即ち、山水経の読誦看経とはなるのです。もし、修行の結果として、読むことが出来ると思うのは、結局はその修行は染汚の行となり、仏道修行の退転なのです。しかし、修証が即ち読むことと把捉するのは、その修行は読むための修行ではなくて、あくまでも修証は修証で究尽するのみであり、その時、即ち山水経は山水経として究尽するのです。よって、「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり」(道元禅師『正法眼蔵』「山水経」巻)とはいわれるのです。
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、
