厳密な意味で、労働者とはいえないような拙僧的には、余り関係のない今日であります。とはいえ、3月11日に発生した東日本大震災に関連する事項も検討されているようで、それには関心を抱かざるを得ません。
さておき、一般世間でいうところの労働と、我々禅宗寺院で行う労働は、本質的に違っています。以下の言葉の違いは分かりますでしょうか?
・働かざる者食うべからず
・一日作さざれば、一日食らわず
後者は、中国の禅僧、百丈懐海禅師が述べた言葉とされており、あくまでも自分で自分に課する、一種の誓願です。ですが、前者は社会的に労働者を第一に置きたいような階級闘争的文脈でいわれることです。とはいえ、今日いいたいのは、後者に見える禅宗的労働なので、前者的メーデーを目指したい人は、他の組合の方々と頑張ってください。
元和尚に従い、越州に下る。しばらく、吉峰古精舎に止宿す。冬安居、師、典座となって、歓喜奉仕す。
寛元元年(1243)癸卯冬、殊に雪深し。八町の曲坂、料桶を担って、二時の粥飯に供す。
次年秋、永平寺を草創す。人力一人、師、典座となって、百事照管す。
宝治元年(1247)丁未夏、監寺に充て、勤労す。昼に作務、夜に参学し、衆務を闕せずと雖も、打坐功夫し、已に群れず。
『永平寺三祖行業記』「三祖介禅師」章
さて、これは、永平寺3世となった徹通義介禅師の行実を示したものです。元々達磨宗の懐鑑の元で修行していた義介禅師でしたが、懐鑑が道元禅師に帰投すると、一緒に義介禅師も参じ、修行するようになりました。そして、1243年に道元禅師が越前に移動する時には、ともに着いて行って、越前での僧団運営に協力するようになるのです。まず、最初の冬安居(実際の結制が行われたわけではないと思われる)では、典座という、修行僧たちの食事を作る役目を得て、歓んで奉仕したというのです。その年の冬は、特に雪深い年でしたが、義介禅師は1人で、長い距離を歩き、修行僧たちのために食事を運びました。
そして、永平寺(当初の名前は大仏寺)が開かれてからも、続けて典座となってその職の全般を監督したとされています。さて、1247年になると、改めて義介禅師は監寺に充てられています。監寺とは、『永平寺知事清規』からすれば、監院と同じであり、「監院の一職は院門の諸事を総領す」とある通り、寺院全般に関わる統率役であることが理解出来ます。なお、ところが能く分からないのは、道元禅師の語録である『永平広録』を見ますと、何度か「監寺」に関する上堂があると分かります。それは、監寺を招いたり、監寺が退いて別の人に代わるときなどに、そのことを大衆に伝え、また本人を労うために行われるのですが、それは以下のような順番です。
・監寺に謝する上堂。 巻2-137上堂(1245年)
・監寺・典座を請する上堂。 巻2-139上堂(1245年)
・新旧監寺・典座に謝する上堂。 巻3-214上堂(1246年)
・監寺に謝する上堂。 巻4-299上堂(1248年)
・監寺を請する上堂。 巻4-300上堂(1248年)
……先に挙げた「宝治元年」に義介禅師が充てられたとは伝えられますが、招かれた時に該当する上堂がありません。というか、この役寮に対する上堂を見る限り、年末に行われる場合が多いように思うのですが、それで考えてみると、宝治元年の冬は、道元禅師、鎌倉に行化していたときに当たります。よって、この通信網が発達した現在ならともかく、当時は前年の配役を変えずにこのまま通したのではないか?とも思うわけです。
そう考えてみると、義介禅師が、「宝治元年夏」から当たったという記述は、道元禅師が行化に出る前に充てられたものかとも思います。無論、それに該当する上堂はないので、この時には充てられるだけ充てられて、そのための上堂は行わずに過ごしたということになるでしょうか。では、上記に見る「1248年」の上堂は、義介禅師向けなのでしょうか?意外な事実が待っています。
而今、永平、泰監寺に謝せんが為に、尽力して一頌を結ぶこと在り。
『永平広録』巻4-299上堂
……「泰監寺」という、どうやら別の人が対象になっているようです。義介禅師は「義鑑」と名乗ったこともありますけれども、それも関係ないですし、道号も関係ありません。素直に考えれば、別の人なのでしょう。ここから考えるべきは、以下の通りです。
?『三祖行業記』の記述が間違っている。
?『永平広録』に、義介禅師向けの上堂が載らなかった。
まぁ、だいたいこの2点である可能性が高いという感じではないでしょうか?この辺、まだまだ検討すべき余地がありますけれども、とりあえずここまでにしておきたいと思います。
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さておき、一般世間でいうところの労働と、我々禅宗寺院で行う労働は、本質的に違っています。以下の言葉の違いは分かりますでしょうか?
・働かざる者食うべからず
・一日作さざれば、一日食らわず
後者は、中国の禅僧、百丈懐海禅師が述べた言葉とされており、あくまでも自分で自分に課する、一種の誓願です。ですが、前者は社会的に労働者を第一に置きたいような階級闘争的文脈でいわれることです。とはいえ、今日いいたいのは、後者に見える禅宗的労働なので、前者的メーデーを目指したい人は、他の組合の方々と頑張ってください。
元和尚に従い、越州に下る。しばらく、吉峰古精舎に止宿す。冬安居、師、典座となって、歓喜奉仕す。
寛元元年(1243)癸卯冬、殊に雪深し。八町の曲坂、料桶を担って、二時の粥飯に供す。
次年秋、永平寺を草創す。人力一人、師、典座となって、百事照管す。
宝治元年(1247)丁未夏、監寺に充て、勤労す。昼に作務、夜に参学し、衆務を闕せずと雖も、打坐功夫し、已に群れず。
『永平寺三祖行業記』「三祖介禅師」章
さて、これは、永平寺3世となった徹通義介禅師の行実を示したものです。元々達磨宗の懐鑑の元で修行していた義介禅師でしたが、懐鑑が道元禅師に帰投すると、一緒に義介禅師も参じ、修行するようになりました。そして、1243年に道元禅師が越前に移動する時には、ともに着いて行って、越前での僧団運営に協力するようになるのです。まず、最初の冬安居(実際の結制が行われたわけではないと思われる)では、典座という、修行僧たちの食事を作る役目を得て、歓んで奉仕したというのです。その年の冬は、特に雪深い年でしたが、義介禅師は1人で、長い距離を歩き、修行僧たちのために食事を運びました。
そして、永平寺(当初の名前は大仏寺)が開かれてからも、続けて典座となってその職の全般を監督したとされています。さて、1247年になると、改めて義介禅師は監寺に充てられています。監寺とは、『永平寺知事清規』からすれば、監院と同じであり、「監院の一職は院門の諸事を総領す」とある通り、寺院全般に関わる統率役であることが理解出来ます。なお、ところが能く分からないのは、道元禅師の語録である『永平広録』を見ますと、何度か「監寺」に関する上堂があると分かります。それは、監寺を招いたり、監寺が退いて別の人に代わるときなどに、そのことを大衆に伝え、また本人を労うために行われるのですが、それは以下のような順番です。
・監寺に謝する上堂。 巻2-137上堂(1245年)
・監寺・典座を請する上堂。 巻2-139上堂(1245年)
・新旧監寺・典座に謝する上堂。 巻3-214上堂(1246年)
・監寺に謝する上堂。 巻4-299上堂(1248年)
・監寺を請する上堂。 巻4-300上堂(1248年)
……先に挙げた「宝治元年」に義介禅師が充てられたとは伝えられますが、招かれた時に該当する上堂がありません。というか、この役寮に対する上堂を見る限り、年末に行われる場合が多いように思うのですが、それで考えてみると、宝治元年の冬は、道元禅師、鎌倉に行化していたときに当たります。よって、この通信網が発達した現在ならともかく、当時は前年の配役を変えずにこのまま通したのではないか?とも思うわけです。
そう考えてみると、義介禅師が、「宝治元年夏」から当たったという記述は、道元禅師が行化に出る前に充てられたものかとも思います。無論、それに該当する上堂はないので、この時には充てられるだけ充てられて、そのための上堂は行わずに過ごしたということになるでしょうか。では、上記に見る「1248年」の上堂は、義介禅師向けなのでしょうか?意外な事実が待っています。
而今、永平、泰監寺に謝せんが為に、尽力して一頌を結ぶこと在り。
『永平広録』巻4-299上堂
……「泰監寺」という、どうやら別の人が対象になっているようです。義介禅師は「義鑑」と名乗ったこともありますけれども、それも関係ないですし、道号も関係ありません。素直に考えれば、別の人なのでしょう。ここから考えるべきは、以下の通りです。
?『三祖行業記』の記述が間違っている。
?『永平広録』に、義介禅師向けの上堂が載らなかった。
まぁ、だいたいこの2点である可能性が高いという感じではないでしょうか?この辺、まだまだ検討すべき余地がありますけれども、とりあえずここまでにしておきたいと思います。
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