今日5月3日は「憲法記念日」とのこと。現在の『日本国憲法』が施行された日だということで、この日が充てられております。多分にほとんどの人は、ゴールデン・ウィークの連休くらいにしか思っていない可能性もありますが、拙僧ども僧侶は世の休日は、仕事の時間でございます。
さておき、毎年この日には「憲法」に関わる記事をアップするように心掛けていたのですが、その辺の詳細は【「憲法記念日」の雑考(平成22年度版)】辺りを参照していただくと良いでしょう。毎年のまとめリンクがあります。或いは、今年の各政党の「談話」も【憲法記念日で与野党が談話(時事通信)】で出ていますので、こちらもご覧いただくと良いでしょう。
そんなわけで、今年も、類した記事を挙げようかと準備していた拙僧。手元にあった故・井上ひさし氏のエッセイなどを読んでいたところ、最近話題になった、あの人の名前が出ていたので、そちらの記事に切り替えてしまおうという話です。実際、特定の記事を挙げるには、それなりの準備が必要ですが、最近ではその時間が決定的に足りません。よって、「羊頭狗肉」という苦肉の策・・・
五百旗頭真著『米国の対日占領政策』(中央公論社、一九八五年)にも書いてあるが、アメリカはソ連参戦の前にいかに戦いを終息させるか、それに頭を悩ませていたのだから、日本としても、もっと早く戦争を終わらせる可能性は十分にあった。それを「国体」というか、天皇制にこだわっているうちに、あせったアメリカが原爆を落とす、そのへんの事情がこの本で実によく分かる。もうちょっと早く終戦の決断をすべきだった。米軍は沖縄まで来る必要はなかった。僕の感じでは、山本五十六元帥は自殺のような気がする。
井上氏『悪党と幽霊 エッセイ集7』中公文庫、68〜69頁
「あら?こんなところに五百旗頭さんが?!」という感じでこの一文を読みました。この方、つい先日の【えっと・・・「ごひゃくはたがしら」かな?】という記事でお名前を拝見して、珍しい名字に驚かされたのですが、この記事は、4月上旬の話ですけれども、東日本大震災の復興計画をまとめる「復興構想会議」の議長に、防衛大学校の校長を務める五百旗頭真氏が決まったという話でした。この時には、防衛大学校ということで、自衛隊の関係者か?くらいにしか思っていなかったのですが、近現代史の研究者でもあったんですね。
なわけで、ネット書店などで検索したところ、同じ名字の人の本も多数引っかかったのですが、この方、親御さんも、息子さん方も、皆さん「学者一家」だったようで。そして本人は、歴代の首相や政党有力者との対談なども積極的に行っている方だったんですね。拙僧が普段から読む学問領域とは全く違っていますけれども、講談社学術文庫などでも名前が見えるようで。
『米国の日本占領政策――戦後日本の設計図(上・下)』(中央公論社、1985年)
『日本政治外交史』(放送大学教育振興会、1985年)
『日米戦争と戦後日本』(大阪書籍、1989年/講談社学術文庫、2005年)
『秩序変革期の日本の選択――「米・欧・日」三極システムのすすめ』(PHP研究所、1991年)
『占領期――首相たちの新日本』(読売新聞社、1997年/講談社学術文庫、2007年)
『日本の近代 6 戦争・占領・講和――1941-1955』(中央公論新社、2001年)
『歴史としての現代日本――五百旗頭真書評集成』(千倉書房、2008年)
単著だけでもこれだけありますな。井上氏が引いたのは、この一番上の著作ということになります。拙僧、この辺の領域について、ほとんど考えたことがない場面ですので、むしろ何かを機会に読んでみるべきなのでしょうね。いや、今こそが機会なのでしょうかね。
さておき、何だってこの人が選ばれたかですけど、おそらく多くのブロガーさんが指摘していることなので、もう指摘しませんが、拙僧的には、この方、名前でかなり得をしている印象です。何となく、この人をトップにしておけば、それだけで「旗頭」が立つ気がしますものね。なお、同氏のWikipediaの記述を見ていて「なるほど」と感じたのが、以下の意見。
一方で、歴史認識問題について日本政府の姿勢を批判する論客や諸外国は、戦前の植民地支配や対外侵略だけでなく、その歴史を反省して平和的発展に尽くした戦後日本の歩みも踏まえて評価すべきだとしている。
これは、『中央公論』2005年10月に掲載された「歴史の咎を『戦後責任』で超えるとき」という論考にて述べていることだそうですが、確かに、過去の或る時ばかりを論い、その後の様子を見ないというのもおかしな話です。無論、過去の或る時に被害を受けた人は、その時の状況を忘れずにいると思いますので、その意味での被害者である事実を忘れろとはいいませんが、「歴史」というのは被害感情に於いて成立するものではないわけで、この辺のバランスは大切だろうと思うわけです。
世尊のしめしましますがごときは、善悪の業、つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも、不亡なり。もし因縁にあへば、かならず感得す。しかあれば、悪業は、懺悔すれば滅す、また転重軽受す。善業は、随喜すればいよいよ増長するなり、これを不亡といふなり、その報、なきにはあらず。
『正法眼蔵』「三時業」巻
道元禅師が世尊の教えとして示されているように、我々が行う善悪の行いは、何もせずにそれとして消えることはありません。ただ、悪をなしたならば、懺悔し反省すれば良いのです。そうすれば、滅するでしょうし、重い悪も軽くなることでしょう。善業は、それを好んで行えば良いのです。そうすれば、その報は益々増えることでしょう。これを「不亡」といい、報いがないことはないのです。悪に対し、善をなしたから、その報によって、悪の報いが消えたのです。無論、この時の善悪というのは、仏教的なそれです。とはいえ、或る意味、五百旗頭氏の冷静なる発言は、この「三時業」の教えに良く契うような気がするのです。
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さておき、毎年この日には「憲法」に関わる記事をアップするように心掛けていたのですが、その辺の詳細は【「憲法記念日」の雑考(平成22年度版)】辺りを参照していただくと良いでしょう。毎年のまとめリンクがあります。或いは、今年の各政党の「談話」も【憲法記念日で与野党が談話(時事通信)】で出ていますので、こちらもご覧いただくと良いでしょう。
そんなわけで、今年も、類した記事を挙げようかと準備していた拙僧。手元にあった故・井上ひさし氏のエッセイなどを読んでいたところ、最近話題になった、あの人の名前が出ていたので、そちらの記事に切り替えてしまおうという話です。実際、特定の記事を挙げるには、それなりの準備が必要ですが、最近ではその時間が決定的に足りません。よって、「羊頭狗肉」という苦肉の策・・・
五百旗頭真著『米国の対日占領政策』(中央公論社、一九八五年)にも書いてあるが、アメリカはソ連参戦の前にいかに戦いを終息させるか、それに頭を悩ませていたのだから、日本としても、もっと早く戦争を終わらせる可能性は十分にあった。それを「国体」というか、天皇制にこだわっているうちに、あせったアメリカが原爆を落とす、そのへんの事情がこの本で実によく分かる。もうちょっと早く終戦の決断をすべきだった。米軍は沖縄まで来る必要はなかった。僕の感じでは、山本五十六元帥は自殺のような気がする。
井上氏『悪党と幽霊 エッセイ集7』中公文庫、68〜69頁
「あら?こんなところに五百旗頭さんが?!」という感じでこの一文を読みました。この方、つい先日の【えっと・・・「ごひゃくはたがしら」かな?】という記事でお名前を拝見して、珍しい名字に驚かされたのですが、この記事は、4月上旬の話ですけれども、東日本大震災の復興計画をまとめる「復興構想会議」の議長に、防衛大学校の校長を務める五百旗頭真氏が決まったという話でした。この時には、防衛大学校ということで、自衛隊の関係者か?くらいにしか思っていなかったのですが、近現代史の研究者でもあったんですね。
なわけで、ネット書店などで検索したところ、同じ名字の人の本も多数引っかかったのですが、この方、親御さんも、息子さん方も、皆さん「学者一家」だったようで。そして本人は、歴代の首相や政党有力者との対談なども積極的に行っている方だったんですね。拙僧が普段から読む学問領域とは全く違っていますけれども、講談社学術文庫などでも名前が見えるようで。
『米国の日本占領政策――戦後日本の設計図(上・下)』(中央公論社、1985年)
『日本政治外交史』(放送大学教育振興会、1985年)
『日米戦争と戦後日本』(大阪書籍、1989年/講談社学術文庫、2005年)
『秩序変革期の日本の選択――「米・欧・日」三極システムのすすめ』(PHP研究所、1991年)
『占領期――首相たちの新日本』(読売新聞社、1997年/講談社学術文庫、2007年)
『日本の近代 6 戦争・占領・講和――1941-1955』(中央公論新社、2001年)
『歴史としての現代日本――五百旗頭真書評集成』(千倉書房、2008年)
単著だけでもこれだけありますな。井上氏が引いたのは、この一番上の著作ということになります。拙僧、この辺の領域について、ほとんど考えたことがない場面ですので、むしろ何かを機会に読んでみるべきなのでしょうね。いや、今こそが機会なのでしょうかね。
さておき、何だってこの人が選ばれたかですけど、おそらく多くのブロガーさんが指摘していることなので、もう指摘しませんが、拙僧的には、この方、名前でかなり得をしている印象です。何となく、この人をトップにしておけば、それだけで「旗頭」が立つ気がしますものね。なお、同氏のWikipediaの記述を見ていて「なるほど」と感じたのが、以下の意見。
一方で、歴史認識問題について日本政府の姿勢を批判する論客や諸外国は、戦前の植民地支配や対外侵略だけでなく、その歴史を反省して平和的発展に尽くした戦後日本の歩みも踏まえて評価すべきだとしている。
これは、『中央公論』2005年10月に掲載された「歴史の咎を『戦後責任』で超えるとき」という論考にて述べていることだそうですが、確かに、過去の或る時ばかりを論い、その後の様子を見ないというのもおかしな話です。無論、過去の或る時に被害を受けた人は、その時の状況を忘れずにいると思いますので、その意味での被害者である事実を忘れろとはいいませんが、「歴史」というのは被害感情に於いて成立するものではないわけで、この辺のバランスは大切だろうと思うわけです。
世尊のしめしましますがごときは、善悪の業、つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも、不亡なり。もし因縁にあへば、かならず感得す。しかあれば、悪業は、懺悔すれば滅す、また転重軽受す。善業は、随喜すればいよいよ増長するなり、これを不亡といふなり、その報、なきにはあらず。
『正法眼蔵』「三時業」巻
道元禅師が世尊の教えとして示されているように、我々が行う善悪の行いは、何もせずにそれとして消えることはありません。ただ、悪をなしたならば、懺悔し反省すれば良いのです。そうすれば、滅するでしょうし、重い悪も軽くなることでしょう。善業は、それを好んで行えば良いのです。そうすれば、その報は益々増えることでしょう。これを「不亡」といい、報いがないことはないのです。悪に対し、善をなしたから、その報によって、悪の報いが消えたのです。無論、この時の善悪というのは、仏教的なそれです。とはいえ、或る意味、五百旗頭氏の冷静なる発言は、この「三時業」の教えに良く契うような気がするのです。
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