Quantcast
Channel: つらつら日暮らし
Viewing all articles
Browse latest Browse all 15768

或る伝記に見える授戒会の示衆について

$
0
0
江戸時代の中期から後期に活動した洞水月湛禅師(1728~1803)の伝記に、次のような教えがあった。

又、尸羅会有り。衆に示して曰く、夫れ大乗戒、新たに得ざる、必ずしも失せず。衆生本有の仏性戒なり。惟に洞水に於いて、瑩浄を開示して爾り。
    『洞水和尚語録』巻6

これは、菩薩戒の本質を示した教えとして、極めて端的である。いわば、菩薩戒とは『梵網経』に依れば「仏性戒」であるという。そのため、菩薩戒の功徳が、その人本人に既に具わっており、そのために大乗戒とは新たに得ることはなく、しかも失うこともないのである。そして、洞水禅師において、自らの戒観を示す語句が「瑩浄」である。よって、次の教えを見ておきたい。

三月上州高崎大雲寺大殿の功成を告げるに、入仏の次、授戒するに、師を請す。師、七衆をして先ず菩提心を発さしめ、七日を期して加行し、本道場に一入し、密に法式を行ずる処に、本有の戒徳、即現成す。古徳のいわゆる開示するところの瑩浄、是を仏性戒と明かさざるかな。
    同上

こちらでは、授戒会に因んで、洞水禅師がどのような思いでもって授戒をしていたかを示す一文である。まず菩提心を発させていることが肝心で、その上で七日加行し法式を修行しするところに、衆生が本有している戒徳が、現成するという。そしてまた、「瑩浄」についての開示が見える。

ところで、この「瑩浄」とは何なのだろうか?

・内外瑩浄にして、猶お瑠璃の如し。 『衆許摩訶帝経』
・豁然瑩浄として、鏡の鏡を照らすが如し。 『宏智録』

他にも多くの事例があるが、内容はほぼ同じで、「瑩浄」とは、その光が清らかで、内外などの分別が付いていない様子を示すものであった。曹洞宗では太祖である瑩山紹瑾禅師の道号に用いられていることから、比較的親しい「瑩」字ではあるが、動詞として用いる場合には「みがく」の意味があるけれども、形容詞の場合には「あきらか。あざやか。つややか」などの意味を持つ。いわば、光り輝く様を示すものである。

その意味では、「瑩浄」については、やや捉えにくいけれども、名詞的には常に清らかな様子を示すものであるし、動詞的には、本具の仏性戒を、常に磨くように努力するように促す教えであったと思われる。つまり、我々の心の奥底には、汚されることなき仏性が存し、それがそのまま戒として、我々の成仏を助けてくれるものの、成仏にはそれなりに努力が必要で、だからこそ戒なのだ、ということになるであろう。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 15768

Trending Articles