前回の【(最終章10)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。
『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。そして、第10巻目には「本・末」とあって、現在は「末」の部分、つまり最後の巻の最後の部分になります。ただし、内容は「本」からの継続で、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今回は、「十三 臨終目出き人々の事」を見ていきます。この章は実質的な最終章であり、仏教者が亡くなる様子を考察したものです。その中でも、今回から数回は、「建仁寺の門徒の中に臨終目出き事」という小題が付いていて、栄西禅師が開いた建仁寺に係る僧侶たちの説話となります。中には、栄西禅師本人のことも書かれておりますので、学んでみたいと思います。
真実に道に入ることは、「摂意」の二字を行うことである。身と口とは、それ一人で過失を行わない。意が内で動いて、言葉が外に現れるのである。意がもし修まれば、身と口も自ずと修まるべきである。なお略せば、無の一事で足りる。祖師が一字の観を示すことは、真言や禅門など、方便は異なっていても、一字でもって修行することは似ている。
老子は「我はなお、学を断ち、為すことはない」といっている。これは、学ぶことを絶ち、何かを為すことを戒めている。だからこそ、「学をなすものは日々に利益となり、道をなすものは日々に損失を出す」といって、「礼義などの才覚を習えば妄心が日々に増し、虚無の大道を行えば、妄念が日々に損なわれる」といっている。虚無に相応すれば、なお妄心を断てるのである。仏法を修行する時も、その心を知るべきである。そうであれば大乗の行人は、文字に執着し、学解を頼り、心地に疎くなれば、菩提に遠ざかるのである。まさにそのところで湛然の心地を得て、本来無事の理に達するべきである。
大恵禅師は「世間の法を学ぶには、識心思を用いなければ不可能である。出世の法を学ぶには、識心思を用いれば(道理から)遠ざかる」といっている。口に言い、心に思うこと、これは皆世間の虚妄である。仏法は言語道断し、心行処滅するのである。これが出世の道である。『大智度論』では、「有念とはつまり魔の網であり、無念はつまり法印である」といっている。
道人である人は、禅や教、顕密などが違っていても、実の修行に立ち入って風情がない者は、菩提の道に疎く、生死への執着が深いからである。法心房上人のように、仏法の心を得るのに、文字には依らないのである。偏に、志の深さにある。かの跡形をもっとも慕うべきである。愚鈍によって退かず、ただ志を堅くすべきである。
拙僧ヘタレ訳
非常に簡単に言いますと、無住禅師は「摂意」について、一字、畢竟「無」に集中してさえいればいい、と主張しています。
それで、文中に「老子」の見解が出ていますが、この前半部分は『老子道徳経』の取意だそうですが、後半の「礼義などの才覚」云々については不明とのこと。老子の見解としては、学問というのは、何かを得ることであり、道を修めることとは、何かを損することであると。しかし、そうであるが故に、道を修めれば、余計な得るところがなく、真実に生きられるという。
ところで、途中に出ている「大恵禅師」とは、かの有名な臨済宗の大慧宗杲禅師のことではなくて、密教系の一行禅師のことらしい。ただし、典拠は不明とのこと。また、『大智度論』にしても、このままでは典拠は不明で、『大智度論』巻8「初品中放光釈論第十四之余」に見える偈文の一部からの取意というのが正しいようです。
なお、「法心房上人」については、【前々回の記事】をご覧下さい。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。そして、第10巻目には「本・末」とあって、現在は「末」の部分、つまり最後の巻の最後の部分になります。ただし、内容は「本」からの継続で、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今回は、「十三 臨終目出き人々の事」を見ていきます。この章は実質的な最終章であり、仏教者が亡くなる様子を考察したものです。その中でも、今回から数回は、「建仁寺の門徒の中に臨終目出き事」という小題が付いていて、栄西禅師が開いた建仁寺に係る僧侶たちの説話となります。中には、栄西禅師本人のことも書かれておりますので、学んでみたいと思います。
真実に道に入ることは、「摂意」の二字を行うことである。身と口とは、それ一人で過失を行わない。意が内で動いて、言葉が外に現れるのである。意がもし修まれば、身と口も自ずと修まるべきである。なお略せば、無の一事で足りる。祖師が一字の観を示すことは、真言や禅門など、方便は異なっていても、一字でもって修行することは似ている。
老子は「我はなお、学を断ち、為すことはない」といっている。これは、学ぶことを絶ち、何かを為すことを戒めている。だからこそ、「学をなすものは日々に利益となり、道をなすものは日々に損失を出す」といって、「礼義などの才覚を習えば妄心が日々に増し、虚無の大道を行えば、妄念が日々に損なわれる」といっている。虚無に相応すれば、なお妄心を断てるのである。仏法を修行する時も、その心を知るべきである。そうであれば大乗の行人は、文字に執着し、学解を頼り、心地に疎くなれば、菩提に遠ざかるのである。まさにそのところで湛然の心地を得て、本来無事の理に達するべきである。
大恵禅師は「世間の法を学ぶには、識心思を用いなければ不可能である。出世の法を学ぶには、識心思を用いれば(道理から)遠ざかる」といっている。口に言い、心に思うこと、これは皆世間の虚妄である。仏法は言語道断し、心行処滅するのである。これが出世の道である。『大智度論』では、「有念とはつまり魔の網であり、無念はつまり法印である」といっている。
道人である人は、禅や教、顕密などが違っていても、実の修行に立ち入って風情がない者は、菩提の道に疎く、生死への執着が深いからである。法心房上人のように、仏法の心を得るのに、文字には依らないのである。偏に、志の深さにある。かの跡形をもっとも慕うべきである。愚鈍によって退かず、ただ志を堅くすべきである。
拙僧ヘタレ訳
非常に簡単に言いますと、無住禅師は「摂意」について、一字、畢竟「無」に集中してさえいればいい、と主張しています。
それで、文中に「老子」の見解が出ていますが、この前半部分は『老子道徳経』の取意だそうですが、後半の「礼義などの才覚」云々については不明とのこと。老子の見解としては、学問というのは、何かを得ることであり、道を修めることとは、何かを損することであると。しかし、そうであるが故に、道を修めれば、余計な得るところがなく、真実に生きられるという。
ところで、途中に出ている「大恵禅師」とは、かの有名な臨済宗の大慧宗杲禅師のことではなくて、密教系の一行禅師のことらしい。ただし、典拠は不明とのこと。また、『大智度論』にしても、このままでは典拠は不明で、『大智度論』巻8「初品中放光釈論第十四之余」に見える偈文の一部からの取意というのが正しいようです。
なお、「法心房上人」については、【前々回の記事】をご覧下さい。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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