題名にある『授戒芳銜』とは、詳しいことはよく分からなかったのだが、本文を見てみると、面山瑞方禅師が授戒会中に記録した名簿のことであったらしい。「芳銜」とは、「良き香りを口に含む」ということであるから、要は授戒を通して、良き香りが吐き出され、その結果人々が成仏道を歩むことを意味しているといえよう。
そこで、今回はこの「序」を参究することで、面山禅師の戒思想の一端を探っておきたい。
授戒芳銜序
大経云く、発心・畢竟の二つながら別無し。是の如き二心は先心難し。自ら未だ得度せざるに先に他を度す、是の故に我初発心を礼す、と。
余、到処、因縁に随って菩薩大戒を授くるは、相模・出羽・肥後及び若狭・洛陽、都計八百余人。皆、是れ初めて一念の浄心を発すの人なり。乃ち、芳銜を記認して、大衆に読誦させ、これに回向す。亡なれば則ち冥福の為に、存なれば祝寿の為なり。同じく此の心を増長して、以て究竟に至り、情と無情と等しく三菩提の果を成ずるものなり。
『面山瑞方禅師逸録』巻12、『続曹全』「語録二」巻・838頁上下段、訓読は拙僧
そこで、この記録について、一体いつ頃の話なのかについて見ておきたい。その前に、面山禅師の授戒会戒師の記録としては、以前に【面山瑞方禅師の年譜に見る授戒の勝躅】という記事で採り上げた。その時には『永福面山和尚年譜』からの引用として記事にしたのだが、その原文を再度抄出してみたい。
・享保四年己亥 師三十七歳〈中略〉(肥後禅定寺に於いて)衆のために六祖壇経を講じ、初めて戒会を開き、満戒普説有り。
・享保十四年己酉 師四十七歳〈中略〉(若狭空印寺に於いて)信心銘・証道歌・安居巻等を開示し、尋いで戒会を開く。
・宝暦二年壬申 師七十歳、此の夏但州銀山大用寺笠峯長老結制す。師を請うて開示す。在留六十余日、真歇拈古・永平家訓及び宝慶記等を講じ、尋いで戒会を開き、得戒の僧俗男女、六百余人。一七日説戒し、侍者之を記し、稿成る。
・宝暦三年癸酉 師七十一歳、此の夏上州双玄寺、環中長老結制し、師を請うて開示す。〈中略〉又戒会を開き、得戒者僧俗二百五十人。
・宝暦七年丁丑 師七十五歳、夏に常在院快翁長老の内結制、師を請うて〈中略〉且つ戒会を開き、戒子一百余人。
・宝暦十一年辛巳 師七十九歳〈中略〉建仁寺福聚院に移る。〈中略〉菩薩戒会を興行す。
・宝暦十三年癸未 師八十一歳〈中略〉亦牛込長源寺〈中略〉更に戒会を開き、得戒者凡そ二百余人。
・明和三年丙戌 師八十四歳〈中略〉宗仙寺に就いて開戒す。得戒者百五十人。
・明和四年丁亥 師八十五歳〈中略〉尋いで日笠正明寺冬制に留在し、戒会を開き、得戒者真俗八十余員。
・明和五年戊子 師八十六歳〈中略〉肥後永国寺結制〈中略〉且つ戒会を開き、得戒者二百三十五人。
以上の通り、全10回の記録がなされている。そこで、この記録と、先ほどの『序』を併せて見てみても、『序』の記録が、上記一覧の内、何番目の授戒会までが意識されているかが分からなかった。また、相模・出羽については授戒会の記録からは分からなかったが、おそらくは以下の2つのことを指している。
寛永四年丁亥 師二十五歳、(相模老梅庵に於いて)村の仁太夫は発心得度して祖参と名づけ、また森蔵は発心得度して慈貞と名づく。
これは相模老梅庵に於ける1000日の閉門中のことである。おそらくは、面山禅師にとって最初の弟子だったと思われる2人の名前が記されている。それから、出羽(現在の山形県)についてはそもそも赴いた記録が少ないが、本師である損翁宗益禅師が出羽米沢の出身だったとされ、その足跡を辿るが如く赴かれたものかと思うが、実際には、以下の通り拝請があったともいう。
正徳三年癸巳 師三十一歳、〈中略〉請に依りて出羽土山に至り、宗雲・常胤等の為に、弁道話を講ず。晦日に泰心に帰る。
おそらくはこの時に得度をしたものと思われる。ここで名前が出ている宗雲・常胤というのは、面山禅師を受業師としているのかもしれない。何故ならば、先の老梅庵に於ける祖参の場合もそうだが、面山禅師はまだ出家して間もない者に対しては、『弁道話』を開示されたようなのである。宗雲・常胤等についても同様であるため、出家させた者という推測を行った次第である。
さて、『序』について見ておくと、「肥後及び若狭・洛陽」については、禅定寺・空印寺での授戒会や、出家させた弟子が該当するものと思われる。しかし、「洛陽」が分からない。無論、普通に考えれば、建仁寺のことだと思うが、建仁寺だとすると、わざわざ説戒録までが刊行された但馬大用寺などの授戒会が含まれないことに違和感が残る。
そう考えると、先の『序』は、47歳の空印寺に於ける授戒会の後、70歳に於ける但馬大用寺での授戒会までの間に書かれたものだと考えられる。また、戒弟八百余人という数字に関しても、大用寺を入れるとそこだけで六百人となる。だが、それまでの間に、実際には各地での授戒会を行っていたことも考えられ、特に、先に挙げた『年譜』からは10回しか数えられないが、同じ『年譜』には16回の戒会を開いたという記録も書かれている。そうなると、残り6回が分からないため、47歳から70歳までの間に行われたと考えるのが自然であると思うのである。
そこで、改めて若狭空印寺での上堂語を見ると、先に挙げた47歳の時の授戒会を含めて「完戒上堂」2回、「満戒上堂」2回の計4回の記録が残る。残念ながら戒弟の人数までは分からないが、『序』の人数には達するのではなかろうか。そして、その過程で、洛陽での授戒会や得度もあったのだろう。
最初は、普通に洛陽=建仁寺だと考えていたのだが、そこまで簡単な事態でもなく、ちょっと込み入った記事になってしまったが、この辺、再度ちゃんとした記事を書いておきたいものである。
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そこで、今回はこの「序」を参究することで、面山禅師の戒思想の一端を探っておきたい。
授戒芳銜序
大経云く、発心・畢竟の二つながら別無し。是の如き二心は先心難し。自ら未だ得度せざるに先に他を度す、是の故に我初発心を礼す、と。
余、到処、因縁に随って菩薩大戒を授くるは、相模・出羽・肥後及び若狭・洛陽、都計八百余人。皆、是れ初めて一念の浄心を発すの人なり。乃ち、芳銜を記認して、大衆に読誦させ、これに回向す。亡なれば則ち冥福の為に、存なれば祝寿の為なり。同じく此の心を増長して、以て究竟に至り、情と無情と等しく三菩提の果を成ずるものなり。
『面山瑞方禅師逸録』巻12、『続曹全』「語録二」巻・838頁上下段、訓読は拙僧
そこで、この記録について、一体いつ頃の話なのかについて見ておきたい。その前に、面山禅師の授戒会戒師の記録としては、以前に【面山瑞方禅師の年譜に見る授戒の勝躅】という記事で採り上げた。その時には『永福面山和尚年譜』からの引用として記事にしたのだが、その原文を再度抄出してみたい。
・享保四年己亥 師三十七歳〈中略〉(肥後禅定寺に於いて)衆のために六祖壇経を講じ、初めて戒会を開き、満戒普説有り。
・享保十四年己酉 師四十七歳〈中略〉(若狭空印寺に於いて)信心銘・証道歌・安居巻等を開示し、尋いで戒会を開く。
・宝暦二年壬申 師七十歳、此の夏但州銀山大用寺笠峯長老結制す。師を請うて開示す。在留六十余日、真歇拈古・永平家訓及び宝慶記等を講じ、尋いで戒会を開き、得戒の僧俗男女、六百余人。一七日説戒し、侍者之を記し、稿成る。
・宝暦三年癸酉 師七十一歳、此の夏上州双玄寺、環中長老結制し、師を請うて開示す。〈中略〉又戒会を開き、得戒者僧俗二百五十人。
・宝暦七年丁丑 師七十五歳、夏に常在院快翁長老の内結制、師を請うて〈中略〉且つ戒会を開き、戒子一百余人。
・宝暦十一年辛巳 師七十九歳〈中略〉建仁寺福聚院に移る。〈中略〉菩薩戒会を興行す。
・宝暦十三年癸未 師八十一歳〈中略〉亦牛込長源寺〈中略〉更に戒会を開き、得戒者凡そ二百余人。
・明和三年丙戌 師八十四歳〈中略〉宗仙寺に就いて開戒す。得戒者百五十人。
・明和四年丁亥 師八十五歳〈中略〉尋いで日笠正明寺冬制に留在し、戒会を開き、得戒者真俗八十余員。
・明和五年戊子 師八十六歳〈中略〉肥後永国寺結制〈中略〉且つ戒会を開き、得戒者二百三十五人。
以上の通り、全10回の記録がなされている。そこで、この記録と、先ほどの『序』を併せて見てみても、『序』の記録が、上記一覧の内、何番目の授戒会までが意識されているかが分からなかった。また、相模・出羽については授戒会の記録からは分からなかったが、おそらくは以下の2つのことを指している。
寛永四年丁亥 師二十五歳、(相模老梅庵に於いて)村の仁太夫は発心得度して祖参と名づけ、また森蔵は発心得度して慈貞と名づく。
これは相模老梅庵に於ける1000日の閉門中のことである。おそらくは、面山禅師にとって最初の弟子だったと思われる2人の名前が記されている。それから、出羽(現在の山形県)についてはそもそも赴いた記録が少ないが、本師である損翁宗益禅師が出羽米沢の出身だったとされ、その足跡を辿るが如く赴かれたものかと思うが、実際には、以下の通り拝請があったともいう。
正徳三年癸巳 師三十一歳、〈中略〉請に依りて出羽土山に至り、宗雲・常胤等の為に、弁道話を講ず。晦日に泰心に帰る。
おそらくはこの時に得度をしたものと思われる。ここで名前が出ている宗雲・常胤というのは、面山禅師を受業師としているのかもしれない。何故ならば、先の老梅庵に於ける祖参の場合もそうだが、面山禅師はまだ出家して間もない者に対しては、『弁道話』を開示されたようなのである。宗雲・常胤等についても同様であるため、出家させた者という推測を行った次第である。
さて、『序』について見ておくと、「肥後及び若狭・洛陽」については、禅定寺・空印寺での授戒会や、出家させた弟子が該当するものと思われる。しかし、「洛陽」が分からない。無論、普通に考えれば、建仁寺のことだと思うが、建仁寺だとすると、わざわざ説戒録までが刊行された但馬大用寺などの授戒会が含まれないことに違和感が残る。
そう考えると、先の『序』は、47歳の空印寺に於ける授戒会の後、70歳に於ける但馬大用寺での授戒会までの間に書かれたものだと考えられる。また、戒弟八百余人という数字に関しても、大用寺を入れるとそこだけで六百人となる。だが、それまでの間に、実際には各地での授戒会を行っていたことも考えられ、特に、先に挙げた『年譜』からは10回しか数えられないが、同じ『年譜』には16回の戒会を開いたという記録も書かれている。そうなると、残り6回が分からないため、47歳から70歳までの間に行われたと考えるのが自然であると思うのである。
そこで、改めて若狭空印寺での上堂語を見ると、先に挙げた47歳の時の授戒会を含めて「完戒上堂」2回、「満戒上堂」2回の計4回の記録が残る。残念ながら戒弟の人数までは分からないが、『序』の人数には達するのではなかろうか。そして、その過程で、洛陽での授戒会や得度もあったのだろう。
最初は、普通に洛陽=建仁寺だと考えていたのだが、そこまで簡単な事態でもなく、ちょっと込み入った記事になってしまったが、この辺、再度ちゃんとした記事を書いておきたいものである。
この記事を評価して下さった方は、

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