この考察に到る過程については、少し説明しなくてはならない。拙僧自身は、『続曹洞宗全書』「清規」巻に収録された『改正施餓鬼作法〈甘露門・在家葬式法〉』の関係で、様々な念誦作法に基づいた在家葬儀作法が、既に面山禅師の段階で成立していたと思っていた。ところが、この『続曹全』に収録されたテキストは、明治24年に原大泉師という方が編集されたものであり、面山禅師の時代と同一というのは、やや楽観的な希望に過ぎることが分かった。
そこで、改めて調べ直したところ、面山禅師には『送亡訓訣』という名前の切紙(訓訣)が『洞上室内訓訣』(『曹洞宗全書』「室中」巻所収)に収録していることが分かった。そこで、今日はそれを訓読してみながら、意義を考えてみたい。なお、訓読に際し、本来確認されている写本間の同異については論じない。
送亡訓訣
送亡を聞けば、則ち須く即時に牌を建て、焼香し菩薩三帰戒を授くべし。
時至らば、霊龕に向かいて、則ち心仏及び衆生、是の三無差別の観に住し、無差別の光を発して、霊龕を照らせ。是れ、無上大涅槃、円明常寂照の境涯なり。
因りて、法語を挙して、讃歎せよ。
経に云く、「如来涅槃を証し、永く生死を断ず。若し至心に聴くこと有らば、まさに無量の楽を得べし」と。宜しく亡霊を以て如来に同じて、法語、此の偈の意を含むべし。
法語畢りて、撥遣は常の如し。
一仏国従り一仏国に至り送るの観に住するなり。
牌を移す時、まさに宝楼閣印咒を以て安位すべし。諷経は宜しきに随うなり。
延享二年乙丑三月 面山授
まずこれは、「送亡」とあるが、「亡者を送る」ということであり、特にこの場合は在家者相手の喪儀法ということになるだろう。どのようなことが行われているかといえば、亡者が出たと聞けば、すぐに位牌を立てて、焼香し、菩薩の三帰戒を授けるべきであるという。この「菩薩三帰戒」という概念がやや分からないが、面山禅師の『仏祖正伝大戒訣』巻下「第六直下菩薩十六条戒」項には、菩薩戒儀規関連の「三帰戒」が示されている。
それから、これは、喪儀作法の前に行われていることなのだろう。何故ならば、三帰戒を授けてから後、しばらくして「時至らば」として、『華厳経』「唯心偈」に基づく無差別光を発して、「無上大涅槃」云々(『六祖壇経』)の境涯に至るとしているのである。
また、法語を述べて、「如来証涅槃」(『大般涅槃経』巻22「光明遍照高貴徳王菩薩品第十之二」)の意義を、よく亡者に知らしめるという。
ところで、その後に「撥遣」をするというが、「撥遣」とは、「はじき出し遣る」というのが原意であって、この場合は亡者を涅槃に送ることを意味しているといえよう。それを面山禅師は具体的に、「一仏国から一仏国へ」としている。いわば、本具の仏性が十全に発揮されることを示すのみであるといえよう。
そして、『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』を唱えるが、これは今も同じように喪儀作法に於いて用いられるものである。ところで、面山禅師はその呼び方を『宝楼閣印咒』としている。これは、江戸時代及び明治16年刊の面山禅師『甘露門』の各陀羅尼の名称に一致しており、これが本来の呼び方であったと思われる。見ての通り、これは「安位諷経」の前提として行われ、諷経の際の経文は、適当であった。
ところで、この内容を見ると、いわゆる「授戒」「引導」「安位諷経」のみを強調している。また、思想的影響は、おそらく本師の損翁宗益禅師からもあると思われる。
余、住山以来、男女の為に下炬・擧钁を行ずるは、唯だ無上大涅槃・円明常寂照を以て、而も安身立命の処を讃歎するなり。未だ曾て一箇の迷妄凡夫を見ざる。
『見聞宝永記』
これは、以前に【葬儀法をめぐって 曹洞宗VS黄檗宗(続・或る僧の修行日記2)】という記事でもアップしたことがあるので、詳細はそちらを参照していただきたい。ここで損翁禅師は、どのような在家信者であっても、必ず「無上大涅槃」云々の道理をもって、その安身立命の処を讃歎するという。面山禅師は、この教えを受けて、先のような訓訣を残されたのであろう。思っていたより、かなり簡潔だ。
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そこで、改めて調べ直したところ、面山禅師には『送亡訓訣』という名前の切紙(訓訣)が『洞上室内訓訣』(『曹洞宗全書』「室中」巻所収)に収録していることが分かった。そこで、今日はそれを訓読してみながら、意義を考えてみたい。なお、訓読に際し、本来確認されている写本間の同異については論じない。
送亡訓訣
送亡を聞けば、則ち須く即時に牌を建て、焼香し菩薩三帰戒を授くべし。
時至らば、霊龕に向かいて、則ち心仏及び衆生、是の三無差別の観に住し、無差別の光を発して、霊龕を照らせ。是れ、無上大涅槃、円明常寂照の境涯なり。
因りて、法語を挙して、讃歎せよ。
経に云く、「如来涅槃を証し、永く生死を断ず。若し至心に聴くこと有らば、まさに無量の楽を得べし」と。宜しく亡霊を以て如来に同じて、法語、此の偈の意を含むべし。
法語畢りて、撥遣は常の如し。
一仏国従り一仏国に至り送るの観に住するなり。
牌を移す時、まさに宝楼閣印咒を以て安位すべし。諷経は宜しきに随うなり。
延享二年乙丑三月 面山授
まずこれは、「送亡」とあるが、「亡者を送る」ということであり、特にこの場合は在家者相手の喪儀法ということになるだろう。どのようなことが行われているかといえば、亡者が出たと聞けば、すぐに位牌を立てて、焼香し、菩薩の三帰戒を授けるべきであるという。この「菩薩三帰戒」という概念がやや分からないが、面山禅師の『仏祖正伝大戒訣』巻下「第六直下菩薩十六条戒」項には、菩薩戒儀規関連の「三帰戒」が示されている。
それから、これは、喪儀作法の前に行われていることなのだろう。何故ならば、三帰戒を授けてから後、しばらくして「時至らば」として、『華厳経』「唯心偈」に基づく無差別光を発して、「無上大涅槃」云々(『六祖壇経』)の境涯に至るとしているのである。
また、法語を述べて、「如来証涅槃」(『大般涅槃経』巻22「光明遍照高貴徳王菩薩品第十之二」)の意義を、よく亡者に知らしめるという。
ところで、その後に「撥遣」をするというが、「撥遣」とは、「はじき出し遣る」というのが原意であって、この場合は亡者を涅槃に送ることを意味しているといえよう。それを面山禅師は具体的に、「一仏国から一仏国へ」としている。いわば、本具の仏性が十全に発揮されることを示すのみであるといえよう。
そして、『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』を唱えるが、これは今も同じように喪儀作法に於いて用いられるものである。ところで、面山禅師はその呼び方を『宝楼閣印咒』としている。これは、江戸時代及び明治16年刊の面山禅師『甘露門』の各陀羅尼の名称に一致しており、これが本来の呼び方であったと思われる。見ての通り、これは「安位諷経」の前提として行われ、諷経の際の経文は、適当であった。
ところで、この内容を見ると、いわゆる「授戒」「引導」「安位諷経」のみを強調している。また、思想的影響は、おそらく本師の損翁宗益禅師からもあると思われる。
余、住山以来、男女の為に下炬・擧钁を行ずるは、唯だ無上大涅槃・円明常寂照を以て、而も安身立命の処を讃歎するなり。未だ曾て一箇の迷妄凡夫を見ざる。
『見聞宝永記』
これは、以前に【葬儀法をめぐって 曹洞宗VS黄檗宗(続・或る僧の修行日記2)】という記事でもアップしたことがあるので、詳細はそちらを参照していただきたい。ここで損翁禅師は、どのような在家信者であっても、必ず「無上大涅槃」云々の道理をもって、その安身立命の処を讃歎するという。面山禅師は、この教えを受けて、先のような訓訣を残されたのであろう。思っていたより、かなり簡潔だ。
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