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仏戒を受ける意義について

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何故、仏教では戒を受けねばならないのか?日本では実質的にこの辺がほとんど強調されていないため、説明することはそれなりに困難である。ただし、曹洞宗の教化法を見ていても、やはり授戒がその基本にあることは疑いようのない事実であり、坐禅は本来的にその結果でしかない。

そうなると、やはり何故戒を受けるべきなのかを学ぶべきであるといえる。今日は、明治期から戦前くらいまで活動された、或る宗師家の言葉から考えてみたい。

仏戒のことは前にも述べた如く始中終一貫して居る。即ち仏家初入の門より堂奥までやはり戒である。而して定と云ふも、戒と云ふも、其の内容は等同一如の仏性なれば、初後共に何れでもよさそうに思はれるのであるが、初入の門は必ず戒でなくてはならぬのである。既に仏家に投じて一蒲團上の行履上には戒が定であり、定が慧であると云ふことを得るである。
    原田祖岳老師「洞上安心の眼目(仏戒論)」、『禅学質疑解答』丙午出版社・大正6年、31頁

戒定慧の三学について、等同一如の仏性であるというのは、まさに仏性一元の世界をよく悟得しうる人でなくてはいえないことである。無分別の極致である。しかし、その上で仏家初入の門は戒であるとされている。これは、様々な歴史的事実が、それを物語っているといえよう。釈尊自身は、未だ戒の無い状態で出家されたけれども、既に自ら出家の姿をされるところに、実質的な戒とともに生きる様子があったといえる。

その上で、釈尊が戒を定められた後は、出家は常に戒とともにあった。よって、仏家初入の門は戒だと明言されるのである。この原田老師の見解であるが、元々洞上の宗意安心に混乱が見られることを指摘した或る僧侶の意見に対して答えられたものであった。『修証義』が意識されていたかどうかは、原文からは分からないが、基本を「戒定慧の三学」に置いていることは明らかである。安心と受戒とを関連させるのは、『修証義』の文脈に依拠することになるため、よって、原文からは分からないものの、意識されていた可能性は否定出来ない。

茲に至りて戒法の受持場、即ち戒は仏法の門番にして、且つ主人公であることを知るのである。定慧は然らず、門前にても、修すれば修し得られぬでもないが、正しくは仏家に入り了りに(原文ママ、「て」か?)後に修すべき仏の家業である。
    前掲同著、31頁

少し面白いと思ったのが、この場合の「定」とは坐禅のことを指しておられる。そうなると、上記の見解を素直に読むと、今時の参禅者という人達も、仏戒を受けていなくてはならないことが分かる。特に後半部分を見ればその意義が分かるが、坐禅や仏教の智慧(或いは教学への学びも含むか?)については、門前(仏教に入らなくても)にて修行すれば得られないわけでは無いとしているが、正しくは戒を受けて仏の家に入り、その後に修行すべき「家業」であるという。

この坐禅や智慧が「家業」であるという指摘は非常に重要で、これが何かを目的に行うのでは無いことを意味している。既に仏の家に入ったのであれば、当然に行われるべきことだといえる。或いは、道元禅師であれば、「仏家の調度」などと仰ったことであろう。我々は修行などを、特別なものであると思い込んでしまう。だが、自宅に住んでいて特別なことをする人などいるだろうか?自宅で行うことは、まさに日常の生活である。

つまり、その自宅に入るために戒を要するが、後の坐禅などはただの日常なのである。

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