もう既に、拙僧自身としては、「戒名」という名称については、新しい呼称であって、受戒と仏教徒としての名前との関連については、余り関係が無いという結論に達している。ただ、そうなると寺院経営上の問題を惹起するので、どうにかしてソフトランディングする方法がないものか?と考えている。
今日の記事は、それに直接回答を与えてくれるものではないが、考えを進める際の1つのきっかけにはなるかもしれないので、採り上げておきたい。
明徳三年、征夷大将軍義満公、浄侶を内野に集め、法華万部を誦す。仍って師を招いて法事を讃揚し、是に由りて道声海内に振るう。
継いで尾州太守直正、徳望を欽慕し、請うて弟子の礼を申し、受戒参禅す。且つ法諱・道号を需む。師、青松正眼の字を書いて、以て之を付す。
『日域洞上諸祖伝』「正眼寺天鷹祐禅師伝」、『曹洞宗全書』「史伝(上)」巻・60頁上
最初の行は、当時の将軍だった足利義満についての話であり、義満に重用された様子が伝えられている。その上で、見ておきたいのは尾州太守直正という人と、正眼寺の開山由来についてである。実際に、この件について詳しく解説されている【正眼寺の沿革】を見ると、色々と分かるのだが、先に挙げた『日域洞上諸祖伝』とは記述が違っている。
具体的には、この「尾州太守直正」が受けた法諱・道号の件である。本書の場合には「青松正眼」であり、これは現在の小牧市正眼寺の山号・寺号そのものだが、先にリンクした記録を見ると、「青生山正眼寺」であったともいう。どっちが正しいのだろうか?それで、青生とは、この尾州太守直正の名字であったともいう。だが、そのような名字をそのまま道号に使うだろうか?そう考えると、『諸祖伝』の記述で合っているような気がする。
更に別の資料も見てみたが、『日本洞上聯燈録』巻3でも同じく「青松正眼」であった。そうなると、江戸時代の記録では「青松正眼」として認識されていたことになるのだろう。あれ?「沿革」に書いてあった「青生正眼」はどこから来たんだ?同寺に伝わる情報か?
それで、何故先の一節を採り上げたかというと、信徒側から「法諱・道号」を求め、それに対して授けた場合、というか、そういう記録が残されたことが気になった、ということである。ついでに、この段階でもまだ「戒名」という表記では無いという話である。
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『日域洞上諸祖伝』「正眼寺天鷹祐禅師伝」、『曹洞宗全書』「史伝(上)」巻・60頁上
最初の行は、当時の将軍だった足利義満についての話であり、義満に重用された様子が伝えられている。その上で、見ておきたいのは尾州太守直正という人と、正眼寺の開山由来についてである。実際に、この件について詳しく解説されている【正眼寺の沿革】を見ると、色々と分かるのだが、先に挙げた『日域洞上諸祖伝』とは記述が違っている。
具体的には、この「尾州太守直正」が受けた法諱・道号の件である。本書の場合には「青松正眼」であり、これは現在の小牧市正眼寺の山号・寺号そのものだが、先にリンクした記録を見ると、「青生山正眼寺」であったともいう。どっちが正しいのだろうか?それで、青生とは、この尾州太守直正の名字であったともいう。だが、そのような名字をそのまま道号に使うだろうか?そう考えると、『諸祖伝』の記述で合っているような気がする。
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それで、何故先の一節を採り上げたかというと、信徒側から「法諱・道号」を求め、それに対して授けた場合、というか、そういう記録が残されたことが気になった、ということである。ついでに、この段階でもまだ「戒名」という表記では無いという話である。
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