中国潙仰宗の仰山慧寂は、かなり厳しい宗風で知られているようだが、こんな問答がある。
又た問う、「和尚還た持戒するや否や」。
師云く、「不持戒」。
云く、「還た坐禅するや否や」。
師云く、「不坐禅」。
公、良久す。
師云く、「会すや」。
云く、「会せず」。
師云く、「老僧の一頌を聴け、『滔滔として不持戒、兀兀として不坐禅。釅茶三両の椀、意、钁頭の辺に在り』」。
『仰山録』
内容としては、陸希声相公との問答なのだが、相公は仰山に対して、持戒しているかどうか?を尋ねている。すると仰山は「不持戒(持戒せずと訓読しようと思ったが、意図があって元の通り)」と答えた。更に相公が、坐禅しているかどうか?を尋ねているのだが、それに対しても「不坐禅」と答えた。
おそらくは、高僧とも言われていたであろう仰山が、持戒も坐禅もしていないと答えるのだから、相公も黙るしかなかったようなのだが、それに対して仰山は、「分かったか?」と尋ねている。当然に、相公は理解出来ていない。
よって、仰山は、偈頌を示し、「よどみなく不持戒で、岩のように不坐禅である。濃茶を2~3杯飲み、我が意は地獄にあるぞ」というものであった。
この解釈が問題である。
「不持戒」「不坐禅」を文字通り採れば、「持戒していない」「坐禅していない」と言うことである。しかし、偈頌を見ても、単純な否定とは捉えられない。要するに、持戒や坐禅を超越しているのであり、その超越性にこそ仏道の真実を見出しているのである。だからこそ、濃茶を飲んで目を覚ましつつも、自分の意は地獄にあるのである。
通常なら、天上に昇りたいと願うのが人情であろうが、仰山が目指したのは、そのような分別を破すことである。持戒や坐禅といったものは、無分別の境涯からすれば、ただの付け足しでしかないのである。
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師云く、「不持戒」。
云く、「還た坐禅するや否や」。
師云く、「不坐禅」。
公、良久す。
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云く、「会せず」。
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『仰山録』
内容としては、陸希声相公との問答なのだが、相公は仰山に対して、持戒しているかどうか?を尋ねている。すると仰山は「不持戒(持戒せずと訓読しようと思ったが、意図があって元の通り)」と答えた。更に相公が、坐禅しているかどうか?を尋ねているのだが、それに対しても「不坐禅」と答えた。
おそらくは、高僧とも言われていたであろう仰山が、持戒も坐禅もしていないと答えるのだから、相公も黙るしかなかったようなのだが、それに対して仰山は、「分かったか?」と尋ねている。当然に、相公は理解出来ていない。
よって、仰山は、偈頌を示し、「よどみなく不持戒で、岩のように不坐禅である。濃茶を2~3杯飲み、我が意は地獄にあるぞ」というものであった。
この解釈が問題である。
「不持戒」「不坐禅」を文字通り採れば、「持戒していない」「坐禅していない」と言うことである。しかし、偈頌を見ても、単純な否定とは捉えられない。要するに、持戒や坐禅を超越しているのであり、その超越性にこそ仏道の真実を見出しているのである。だからこそ、濃茶を飲んで目を覚ましつつも、自分の意は地獄にあるのである。
通常なら、天上に昇りたいと願うのが人情であろうが、仰山が目指したのは、そのような分別を破すことである。持戒や坐禅といったものは、無分別の境涯からすれば、ただの付け足しでしかないのである。
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