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江戸時代後期の授戒会に見る「血脈披見」と戒名について

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とりあえず以下の一節をご覧いただきたい。なお、出典は天保10年(1839)に増福山大公寺で行われたものである。

時に戒師、須弥に上る。戒頭の血脈を開き、教授松燭を取て名と名照し見せしむ。終て長のまま戒頭の肩に掛。畳て懐中す。
    『増福山授戒直壇指南』、『曹洞宗全書』「清規」巻・791頁上段

これは、いわゆる『血脈』授与の場面を示したものである。戒弟による四衆登壇が終わり、それに続く儀礼である。わざわざ「名と名照し見せしむ」とある通りで、ここで戒弟に対して戒名を示したわけである。この辺は、現代の作法でも、いわゆる「血脈披見」ということでほぼ同じ機能を持つ作法があるが、内容は相違している。

それで、よく知られていることとは思うが、この作法の典拠となっているのは、道元禅師が伝えた『仏祖正伝菩薩戒作法』である。

 次に教授師、血脈を展げ和尚に度献す。和尚左臂上に移取し、而も受者を召して、松燭を燃やして而も教えて師資相伝の名字の処を見せしむ。
 次に受者、召すのに応じて合掌問訊し、進んで和尚の右辺に到り、血脈に向かいて問訊す。或いは速礼一拝し、合掌曲身して師資嗣法の名字を見る。
 次に和尚、血脈を以て受者の左肩上に荷担せしむ。受者、血脈を荷担し、和尚に向かいて問訊した後、北に向かいて歩き、椅子の後、屏風の傍に到りて且く止まる。〈中略・和尚と侍者が退堂〉
 次に受者、椅の北、屏風の傍に於いて、血脈を畳み収めて衣襟の左肩の裏に蔵す、椅の西を経て正面に到り、或いは三拝、或いは問訊して、教授の後に随いて道場を出づ。
    『仏祖正伝菩薩戒作法』、訓読は拙僧

ということで、この辺が「血脈披見」及び「血脈授与」の作法の典拠となっていることが分かるし、余り変わっていない。それで、現代の作法では、「披見」の方法も、「授与」の方法も一部変わってしまっていて、まず「披見」は戒弟(戒頭)の背中に乗せるようにして行われるようになっている。先に挙げた指南書の場合には、戒師の手に載せていたと思われる(終わってから、戒頭の肩に掛けるため)。また、「授与」についても、本来の『菩薩戒作法』同様に、戒頭は畳んで懐中に収めるという方法だったことが分かる。

そうなると、この辺の変容の原因が気になるところだが、その後に書かれた授戒会作法書も読んでみると、結局のところ、より多くの人に見せることを目的に行われていることが分かる。多分、最初の指南書の場合には、戒頭のみが特別扱いのようになってしまうことが危惧される。そのため、方法が変わったのであろう。

授戒会の作法は、江戸時代初期に月舟宗胡禅師が再興して以来、『菩薩戒作法』を用いていた。無論、この作法書は1人の受者を対象としたものだったが、それが大勢に授ける授戒会へと転用されるに至り、様々な変更が起きた。この辺の相違点については、もう少し他の作法書も見なくてはならないし、一部には批判もあった(特に面山瑞方禅師の批判はかなり強い)。

しかし、では、他に転用できる作法書があったか?というと、この辺もよく分からない。更に検討・研究を重ねる必要があると言えよう。

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