ちょっと気になる一節があったので、見ておきたい。
廿八にして阿州海部の、城万寺の住持に充つ。廿九にして永平寺の演老に就いて、受戒作法を許可せられ、即年の冬初、始めて戒法を開き、最初に五人を度す。卅一に至り、七十余人を度す。
『洞谷記』
この一節は、以前から度々拙ブログには引用されているのでご覧になった方も多いと思う。それで、この一節を虚心坦懐に読むと、瑩山禅師は28歳で阿波城万寺の住持になっておられたが、その翌年に永平寺に上られて義演禅師から「受戒作法」を許可され、同年冬から「戒法」を開いたとされる。
この時、許可された「受戒作法」とは、『仏祖正伝菩薩戒作法』のことであると判断されて、実際に瑩山禅師がこの時に書写した1本を示す奥書を持つ同作法の写本が、現在宗派内に流布している。
しかし、少し気になるのは、この時「始めて戒法を開き、最初に五人を度す。卅一に至り、七十余人を度す」とあることには、注意が必要な気がしている。それは、この「最初の五人」だが、以下の人を指すことが知られている。
初めて首座を可鉄鏡禅師に任ず。予の最初の五人得戒の上足なり。釈尊在世の、陳如尊者の如し。城万寺、最初の首座なり。
同上
これは、眼可鉄鏡禅師に関する説示だが、瑩山禅師は「余の最初の五人得戒の上足なり」としている。つまり、先に見た29歳の時に戒法を授けた相手の一人が、眼可禅師だったわけである。しかし、瑩山禅師はその人を、「陳如尊者の如し」としているから、眼可禅師は出家者だったことは間違いない。だからこそ、瑩山禅師の下で首座や西堂を務めたのである。
しかし、そうなると1つおかしなことがあることに気付く。それは、瑩山禅師は『仏祖正伝菩薩戒作法』でもって、眼可禅師を出家させたのか?ということである。実際に、同作法では『血脈』授与はあるものの、いわゆる三衣や鉢盂の授与はない。そう考えると、この作法では正式な出家得度式は行えないと思うのだが、いかがであろうか。
また、最初に見た一節からは「七十余人を度す」とあって、こちらは在家信者だったと考えるのが自然であろう。つまり、瑩山禅師は同作法を、授戒会にも用いていたと判断される。現在、同作法を用いて授戒会を行っていることは周知の事実で、その淵源は加賀大乗寺の月舟宗胡禅師に遡るとされているが、どうも、瑩山禅師にまで遡る可能性が見えてきた。
そこで、これはまだ仮説段階の結論だが、道元禅師は当初『出家略作法』を用いていたようだが、後に『正法眼蔵』「受戒」巻を著して、それを出家作法にされた可能性がある(実際に使ったかは不明)。瑩山禅師の場合、義演禅師から許可された作法は『仏祖正伝菩薩戒作法』であっただろうから、これを用いて得度などを行ったものか。
ただし、晩年には『出家授戒略作法』を著され、それを孤峰覚明に授けたことが知られるし、また、『洞谷記』を見ると、複数の弟子に「授戒を聴許」などとしている文脈もある。つまり、こういう話だったものか。
①当初瑩山禅師は『仏祖正伝菩薩戒作法』で得度も授戒会も行った。
②しかし、後に法嗣の立場の者が出てくると『仏祖正伝菩薩戒作法』は伝戒に用いた。
③得度作法が必要なので『出家授戒略作法』を著した。
④授戒会は『菩薩戒作法』をそのまま転用しており、転用に必要な作法が『梅山禅師戒法論』や異本の『拝問正授戒之切紙』として明峰・峨山両禅師門下に流布した。
以上である。この辺は、もう少し慎重に考えたいところではあるので、実世界の論文か、このブログで続編を書きたい。
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廿八にして阿州海部の、城万寺の住持に充つ。廿九にして永平寺の演老に就いて、受戒作法を許可せられ、即年の冬初、始めて戒法を開き、最初に五人を度す。卅一に至り、七十余人を度す。
『洞谷記』
この一節は、以前から度々拙ブログには引用されているのでご覧になった方も多いと思う。それで、この一節を虚心坦懐に読むと、瑩山禅師は28歳で阿波城万寺の住持になっておられたが、その翌年に永平寺に上られて義演禅師から「受戒作法」を許可され、同年冬から「戒法」を開いたとされる。
この時、許可された「受戒作法」とは、『仏祖正伝菩薩戒作法』のことであると判断されて、実際に瑩山禅師がこの時に書写した1本を示す奥書を持つ同作法の写本が、現在宗派内に流布している。
しかし、少し気になるのは、この時「始めて戒法を開き、最初に五人を度す。卅一に至り、七十余人を度す」とあることには、注意が必要な気がしている。それは、この「最初の五人」だが、以下の人を指すことが知られている。
初めて首座を可鉄鏡禅師に任ず。予の最初の五人得戒の上足なり。釈尊在世の、陳如尊者の如し。城万寺、最初の首座なり。
同上
これは、眼可鉄鏡禅師に関する説示だが、瑩山禅師は「余の最初の五人得戒の上足なり」としている。つまり、先に見た29歳の時に戒法を授けた相手の一人が、眼可禅師だったわけである。しかし、瑩山禅師はその人を、「陳如尊者の如し」としているから、眼可禅師は出家者だったことは間違いない。だからこそ、瑩山禅師の下で首座や西堂を務めたのである。
しかし、そうなると1つおかしなことがあることに気付く。それは、瑩山禅師は『仏祖正伝菩薩戒作法』でもって、眼可禅師を出家させたのか?ということである。実際に、同作法では『血脈』授与はあるものの、いわゆる三衣や鉢盂の授与はない。そう考えると、この作法では正式な出家得度式は行えないと思うのだが、いかがであろうか。
また、最初に見た一節からは「七十余人を度す」とあって、こちらは在家信者だったと考えるのが自然であろう。つまり、瑩山禅師は同作法を、授戒会にも用いていたと判断される。現在、同作法を用いて授戒会を行っていることは周知の事実で、その淵源は加賀大乗寺の月舟宗胡禅師に遡るとされているが、どうも、瑩山禅師にまで遡る可能性が見えてきた。
そこで、これはまだ仮説段階の結論だが、道元禅師は当初『出家略作法』を用いていたようだが、後に『正法眼蔵』「受戒」巻を著して、それを出家作法にされた可能性がある(実際に使ったかは不明)。瑩山禅師の場合、義演禅師から許可された作法は『仏祖正伝菩薩戒作法』であっただろうから、これを用いて得度などを行ったものか。
ただし、晩年には『出家授戒略作法』を著され、それを孤峰覚明に授けたことが知られるし、また、『洞谷記』を見ると、複数の弟子に「授戒を聴許」などとしている文脈もある。つまり、こういう話だったものか。
①当初瑩山禅師は『仏祖正伝菩薩戒作法』で得度も授戒会も行った。
②しかし、後に法嗣の立場の者が出てくると『仏祖正伝菩薩戒作法』は伝戒に用いた。
③得度作法が必要なので『出家授戒略作法』を著した。
④授戒会は『菩薩戒作法』をそのまま転用しており、転用に必要な作法が『梅山禅師戒法論』や異本の『拝問正授戒之切紙』として明峰・峨山両禅師門下に流布した。
以上である。この辺は、もう少し慎重に考えたいところではあるので、実世界の論文か、このブログで続編を書きたい。
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