とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。
謹題
承陽祖師得度式
出家の功徳言詮を絶す。円頂の方袍火裏の蓮。
法裔宜しく高祖の式に随うべし、是を一大事因縁と名づく。
延享甲子中秋
勅特賜大智慧光禅師
住越前国吉祥山永平寺沙門円月江寂拝識
『永平祖師得度略作法』「題」、旧版『曹洞宗全書』「宗源(下)」巻・13頁上段
これは、永平寺42世・円月江寂禅師(1694~1750)による面山瑞方禅師編『永平祖師得度略作法』への題辞である。意味するところは非常に簡単で、出家の功徳とは、我々の言語では表現できない、頭を丸め御袈裟を着ける姿は、火の中に咲く蓮のようなものである。法孫達は、必ず高祖の式に随うべきであり、これを一大事因縁と名づけるのである。
ところで、拙僧的に気になったのは、「円頂の方袍火裏の蓮」の部分である。前半は我々僧侶の僧体のことを指すのみだが、何故それが「火裏の蓮」となるのかが不明である。そこで、この語句について調べてみた。
すると、中国曹洞宗の洞山良价禅師の五位説に於ける偈頌で「好手猶如火裡蓮」とあることが分かった。とはいえ、意味的には、優れた導きとは、火の中に咲く蓮のようなものだということになるだろう。
更に、以下のような問答を見出すことが出来た。
問う、如何なるか是れ枯木裏の龍吟。
師曰く、火裏蓮生ず。
『景徳伝灯録』巻21「建州白雲智作真寂禅師」
枯木裏の龍吟とは、枯れた木に風が当たり音が鳴る様子を龍吟とし、無情物に仏法の働く様を示すのだが、それを「火の中に蓮が生じる」様子だとされている。その意味では、無分別に仏法の働く様を示すのであるから、我々の僧体もそれと同じように、無分別に仏法の働く様として考えて良いのだろう。
それから、江戸時代には、『正法眼蔵』もよく学ばれ、「出家功徳」巻も同様であっただろうから、出家の功徳が言詮を絶すと示されたのだろう。
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承陽祖師得度式
出家の功徳言詮を絶す。円頂の方袍火裏の蓮。
法裔宜しく高祖の式に随うべし、是を一大事因縁と名づく。
延享甲子中秋
勅特賜大智慧光禅師
住越前国吉祥山永平寺沙門円月江寂拝識
『永平祖師得度略作法』「題」、旧版『曹洞宗全書』「宗源(下)」巻・13頁上段
これは、永平寺42世・円月江寂禅師(1694~1750)による面山瑞方禅師編『永平祖師得度略作法』への題辞である。意味するところは非常に簡単で、出家の功徳とは、我々の言語では表現できない、頭を丸め御袈裟を着ける姿は、火の中に咲く蓮のようなものである。法孫達は、必ず高祖の式に随うべきであり、これを一大事因縁と名づけるのである。
ところで、拙僧的に気になったのは、「円頂の方袍火裏の蓮」の部分である。前半は我々僧侶の僧体のことを指すのみだが、何故それが「火裏の蓮」となるのかが不明である。そこで、この語句について調べてみた。
すると、中国曹洞宗の洞山良价禅師の五位説に於ける偈頌で「好手猶如火裡蓮」とあることが分かった。とはいえ、意味的には、優れた導きとは、火の中に咲く蓮のようなものだということになるだろう。
更に、以下のような問答を見出すことが出来た。
問う、如何なるか是れ枯木裏の龍吟。
師曰く、火裏蓮生ず。
『景徳伝灯録』巻21「建州白雲智作真寂禅師」
枯木裏の龍吟とは、枯れた木に風が当たり音が鳴る様子を龍吟とし、無情物に仏法の働く様を示すのだが、それを「火の中に蓮が生じる」様子だとされている。その意味では、無分別に仏法の働く様を示すのであるから、我々の僧体もそれと同じように、無分別に仏法の働く様として考えて良いのだろう。
それから、江戸時代には、『正法眼蔵』もよく学ばれ、「出家功徳」巻も同様であっただろうから、出家の功徳が言詮を絶すと示されたのだろう。
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