今月から2つほど『正法眼蔵』の勉強会が始まる(1つは実施済み)。ともに毎月1回のペースで、年間数回行う予定である。
その内の1つで、「洗浄」巻を読むこととなった。そのための予習をしていた際に、或る一節について気になった。
経にいはく、つめのながさ、もし一麦ばかりになれば、罪をうるなり。
『正法眼蔵』「洗浄」巻
こちらだがどこが典拠であるか、明確ではないという。しかし、先行研究の結果、『文殊師利問経』からの取意ともされている。その際ならば、以下の一節などが該当するのであろう。
亦た是れ無学菩薩、爪の長さ一䵃麦の如くを得ることを得ざれ。
『文殊師利問経』「菩薩戒品第二」
こちらである。確かに、道元禅師の文章と完全に一致するわけではないが、内容は同じであるため、この辺が参照されたのであろう。なお、『法苑珠林』巻10「仏髪部第八」にほぼ同じ文章が見え、同経から引用されたのであろうが、「一横穀」となっており、道元禅師に参照されたわけでは無いということが分かる。
そこで、道元禅師は爪が伸び過ぎると「罪をうる」とされるが、同経ではその辺、何か説かれているのだろうか?
痒がりを掻くを為す故に、若し此の如き者は、是れ分別菩薩なり。
同上
このようにあって、爪があることにより、かゆい部分を掻いてしまい、結果として「分別菩薩」になるという。この「分別菩薩」についてだが、実態はよく分からない。ただし、先の一節を考えると、結局菩薩として物事を分別するからこそ、爪を切るべきだ、という話になってしまう。そうなると、実践的に分別を離れることを求めていることになるだろうか。
ところで、道元禅師が爪を切るように求める文章は幾つかあるのだが、その典拠とされているのは、本師・天童如浄禅師の教えであるともされる。
拝問す。今日、天下の長老の長髪長抓、何の拠有りや。将に比丘と称して、頗る俗人に似たり。将に俗人と名づけ、又は禿児の如し。西天・東地、正法・像法の間、仏祖の弟子未だ甞て斯の如くならざるや、如何。
和尚示して曰く、真箇是れ畜生なり。仏法清浄海中の死屍なり。
『宝慶記』第9問答
以上の通りである。この一節を受けつつ、道元禅師は如浄禅師がいつも、僧侶の長髪・長爪を批判していたとし、そのようなことをしないように、弟子達に求めたのである。確かに、爪や髪が長いことで、修行に役立つことは何も無い。たまに、手先の細かな作業をするときに必要なくらいではあるが、かつてはそのような雑務も無かったのであろう。
なお、「洗浄」巻にもその名前が見えるが、釈尊在世時には、「長爪梵志」と呼ばれた婆羅門がいたようで、この人は優れた師に会うまで爪を切らない、という誓いを立てた人とされる。爪を切ることが仏説であるならば、仏教徒である拙僧には、この人は真面目なのか?不真面目なのか?よく分からない人ということになる。ただし、爪も長すぎれば生活に支障を来すため、或る意味で生活上の不便をしてでも師に会いたいと願う真面目な求道者であったということになるのだろう。
ところで、長爪梵志だが、『撰集百縁経』巻10を読むと、舎利弗出家の因縁を聞いて、自分もそうなりたいと願い、結果として釈尊と問答して出家するに到るのだが、釈尊が「善来比丘」と仰った段階で、いつもの通りに髪やひげが落ちて、袈裟を着けたということになっている。ただし、ここだけでは、爪が切られたかどうかが分からないところに、ついモヤモヤしてしまうのであった・・・
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その内の1つで、「洗浄」巻を読むこととなった。そのための予習をしていた際に、或る一節について気になった。
経にいはく、つめのながさ、もし一麦ばかりになれば、罪をうるなり。
『正法眼蔵』「洗浄」巻
こちらだがどこが典拠であるか、明確ではないという。しかし、先行研究の結果、『文殊師利問経』からの取意ともされている。その際ならば、以下の一節などが該当するのであろう。
亦た是れ無学菩薩、爪の長さ一䵃麦の如くを得ることを得ざれ。
『文殊師利問経』「菩薩戒品第二」
こちらである。確かに、道元禅師の文章と完全に一致するわけではないが、内容は同じであるため、この辺が参照されたのであろう。なお、『法苑珠林』巻10「仏髪部第八」にほぼ同じ文章が見え、同経から引用されたのであろうが、「一横穀」となっており、道元禅師に参照されたわけでは無いということが分かる。
そこで、道元禅師は爪が伸び過ぎると「罪をうる」とされるが、同経ではその辺、何か説かれているのだろうか?
痒がりを掻くを為す故に、若し此の如き者は、是れ分別菩薩なり。
同上
このようにあって、爪があることにより、かゆい部分を掻いてしまい、結果として「分別菩薩」になるという。この「分別菩薩」についてだが、実態はよく分からない。ただし、先の一節を考えると、結局菩薩として物事を分別するからこそ、爪を切るべきだ、という話になってしまう。そうなると、実践的に分別を離れることを求めていることになるだろうか。
ところで、道元禅師が爪を切るように求める文章は幾つかあるのだが、その典拠とされているのは、本師・天童如浄禅師の教えであるともされる。
拝問す。今日、天下の長老の長髪長抓、何の拠有りや。将に比丘と称して、頗る俗人に似たり。将に俗人と名づけ、又は禿児の如し。西天・東地、正法・像法の間、仏祖の弟子未だ甞て斯の如くならざるや、如何。
和尚示して曰く、真箇是れ畜生なり。仏法清浄海中の死屍なり。
『宝慶記』第9問答
以上の通りである。この一節を受けつつ、道元禅師は如浄禅師がいつも、僧侶の長髪・長爪を批判していたとし、そのようなことをしないように、弟子達に求めたのである。確かに、爪や髪が長いことで、修行に役立つことは何も無い。たまに、手先の細かな作業をするときに必要なくらいではあるが、かつてはそのような雑務も無かったのであろう。
なお、「洗浄」巻にもその名前が見えるが、釈尊在世時には、「長爪梵志」と呼ばれた婆羅門がいたようで、この人は優れた師に会うまで爪を切らない、という誓いを立てた人とされる。爪を切ることが仏説であるならば、仏教徒である拙僧には、この人は真面目なのか?不真面目なのか?よく分からない人ということになる。ただし、爪も長すぎれば生活に支障を来すため、或る意味で生活上の不便をしてでも師に会いたいと願う真面目な求道者であったということになるのだろう。
ところで、長爪梵志だが、『撰集百縁経』巻10を読むと、舎利弗出家の因縁を聞いて、自分もそうなりたいと願い、結果として釈尊と問答して出家するに到るのだが、釈尊が「善来比丘」と仰った段階で、いつもの通りに髪やひげが落ちて、袈裟を着けたということになっている。ただし、ここだけでは、爪が切られたかどうかが分からないところに、ついモヤモヤしてしまうのであった・・・
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