拙僧が、今、約800年前の人たちと同じ問題意識を懐くとすれば、それは【『沙石集』の紹介】の如く「信施の虚受」の話である。「信施」とは、いわゆる在家信者からの、僧侶への布施ということだ。「信心」に基づく布施だから、「信心施」「信施」という。
ところで、この「信施の虚受」については、僧侶の資質が大きく問われた平安時代末期から、室町期にいたって、繰り返し問われたといって良い。拙僧は禅宗系の文献ばかりを読むが、そこにはこの問題が多く散見される。
「信施の虚受」というのは、受ける資格が無いのに、布施を受けることである。信施を受ける資格がある僧を、「応供」というが、これは仏陀、または阿羅漢のことである。
つまり、仏教では施しを受ける側の規定を定めていたのである。僧侶だから誰でも、というわけではないのだ。無論、そのように受けても、「虚受の罪」を回避する方法など、幾らでもあるわけだが、しかし、一種の倫理性として機能した「信施の虚受」という概念は知っておいて良い。無論、これは、僧侶の側の話であって、信者の側には関係が無い。
それは、ゴータマ=ブッダの以下の教えからも知られる。
戒律をまもらず、みずから慎むことなくして人々の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食うほうがましだ。
岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば』189頁
いわゆる、『ウダーナヴァルガ(感興のことば)』からの引用であるが、ブッダの教えの中に、既に「信施の虚受」についての言及がある。この時代から、如何にして社会に受け容れられ、そして機嫌良く布施をいただくかは、仏教教団側にとって大きな問題であった。この一句から、それを感じることが出来る。
ただ、拙僧はここから見出していくべきは、繰り返しになるが、僧侶側の倫理性の問題のみであって、在家信者の側に、これを元に僧侶を批判する資格は無いように思う。あると思うのが、昨今の日本なのかもしれないが、であれば、在家信者の心持ちについての「ブッダの言葉」を並べてみれば良いと思う。それがあって初めて、議論の基礎が出来るというべきであろう。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
ところで、この「信施の虚受」については、僧侶の資質が大きく問われた平安時代末期から、室町期にいたって、繰り返し問われたといって良い。拙僧は禅宗系の文献ばかりを読むが、そこにはこの問題が多く散見される。
「信施の虚受」というのは、受ける資格が無いのに、布施を受けることである。信施を受ける資格がある僧を、「応供」というが、これは仏陀、または阿羅漢のことである。
つまり、仏教では施しを受ける側の規定を定めていたのである。僧侶だから誰でも、というわけではないのだ。無論、そのように受けても、「虚受の罪」を回避する方法など、幾らでもあるわけだが、しかし、一種の倫理性として機能した「信施の虚受」という概念は知っておいて良い。無論、これは、僧侶の側の話であって、信者の側には関係が無い。
それは、ゴータマ=ブッダの以下の教えからも知られる。
戒律をまもらず、みずから慎むことなくして人々の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食うほうがましだ。
岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば』189頁
いわゆる、『ウダーナヴァルガ(感興のことば)』からの引用であるが、ブッダの教えの中に、既に「信施の虚受」についての言及がある。この時代から、如何にして社会に受け容れられ、そして機嫌良く布施をいただくかは、仏教教団側にとって大きな問題であった。この一句から、それを感じることが出来る。
ただ、拙僧はここから見出していくべきは、繰り返しになるが、僧侶側の倫理性の問題のみであって、在家信者の側に、これを元に僧侶を批判する資格は無いように思う。あると思うのが、昨今の日本なのかもしれないが、であれば、在家信者の心持ちについての「ブッダの言葉」を並べてみれば良いと思う。それがあって初めて、議論の基礎が出来るというべきであろう。
この記事を評価して下さった方は、
