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拙僧、正法眼蔵部入りました

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・・・ギャグではないが、そういうと逆にギャグになる。

いつものように、『正法眼蔵』を読んでいると、部活動紹介かと思ってしまうような一文があった。

 あるひは九部といふあり、九分教といふべきなり。
九部
  一者修多羅   二者伽陀   三者本事
  四者本生    五者未曾有  六者因縁
  七者譬喩    八者祇夜   九者優婆提舎
 この九部、おのおの九部を具足するがゆえに、八十一部なり。九部おのおの一部を具足するゆえに、九部なり。帰一部の功徳あらずば、九部なるべからず。帰一部の功徳あるがゆえに、一部帰一部なり。このゆえに八十一部なり、此部なり、我部なり、払子部なり、拄杖部なり、正法眼蔵部なり。
    『正法眼蔵』「仏教」巻

「仏教」巻というのは、仏陀の説法のカテゴリーについて論じられたものであって、「三乗十二分教」について、「教外別伝」として「総不要」とされがちな禅宗の教えの中に、道元禅師はむしろ「総不要」という事実こそが、仏祖と教法との一体を示すものとして顕揚されていく。その中で、「十二分教」から転じて「九部」の説明があり、その「部」の中にあるのが「正法眼蔵部」である。仏祖の部活動である。この件について、道元禅師の弟子達は、以下のように指摘する。

一部帰一部と云は、修多羅の余に八が帰しぬれば、只修多羅の外に物なし。然者、修多羅に修多羅が帰したるなり。是を一部帰一部と云べきなり。自余も如此なるべし。修多羅許に不可限なり。
    『正法眼蔵抄』「仏教」篇

要するに、直弟子達は、一方究尽の論理を使って、一部に他の諸部が入ってしまうから、これでもって、「真の部」が成立するといいたいのだ。その真の部を「一部帰一部」といっている。恁麼が恁麼となるということ。唯仏与仏乃能究尽をいう。よって、この恁麼が恁麼となる道理に契えば、あらゆる存在が、「真の部」となりうるのであり、「此」「我」「払子」「拄杖」「正法眼蔵」と、各々仏道の調度でありながら、道そのものであるという時、「部」なのである。

なるほど、「払子」「拄杖」ともに、上堂という法要の顕揚に使われる物であり、法具であるから、これが仏道そのものであることには何の疑いもない。しかし、そういう「道理」を知っていたとしても、そのまま「九部」に同じく数え入れてしまうというのは、なかなか勇気が要ることであり、更にそれを文章にして書き残すというのは、道元禅師の表現にタブーがなかったことを思わせる。というか、ややもすると、ギャグにさえ聞こえる。

さて、「正法眼蔵部」という時、果たして、「部活動」は何なのだろうか?勿論、「正法眼蔵」に恥じることが無いような生き方をしなくてはならないと思われるので、坐禅修行を中心に、諸修行を連ねていくことになるだろう。特に、『正法眼蔵』の勉強会などは、最高の部活動であろう。また、いうまでもないことだと思ったけれども、蛇足ながら付け加えるとすれば、「部室」は、「僧堂」辺りが妥当である・・・普通の中学校・高校にはないが(汗)

しかし、この部の部長は、勉強家でなければ、務まらなさそうですな。いやいや、坐禅人が最適か。

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