いきなり冒頭の三句が、とびっきりに難しい『正法眼蔵』「現成公案」巻ではあるが、その二句目は以下の通りである。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。
『正法眼蔵』「現成公案」巻
この「万法ともにわれにあらざる」という一句について、果たしてどう理解を進めていくべきか?従来の学僧方には、多くの問題提起をされているけれども、例えば、「われにあらざる」を「無我」や「無自性」と捉え、無我だから、「まどひなく」以下の「なく」の文章が続くという話もあるのだが、果たしてこれは正しいのだろうか?確かに、諸法空であれば、「不生不滅」「不垢不浄」などのように、「不」で論じられる事態とはなろうが(『般若心経』)、しかし、それならば、「現成公案」巻の文章は、「まどはず」「さとらず」、「生ぜず」「滅せず」などと書くのではないだろうか?これらは、そのものが「無い」といい、存在そのものを否定している。確かに、『般若心経』に依れば、「無無明亦、無無明尽」などとも書くので、存在の無さにも入ってきそうだが、これは「無我だから」というよりは、「空だから」である。「無我」ということは、実体が無いのであって、存在そのものが無いわけではない。しかも、「ともにわれにあらざる」とあるが、この「とも」とは一体何であろうか?
何かに伴っているのだろうか?
こう考えるとき、いつもこの「現成公案」巻の一節を理解するのが、非常に困難であった。ただ、最近では、或る人の言葉を通して、この一節は、次の様に理解すべきであろうとも思っている。
不与万法為侶者、是什麼人。
(万法と侶たらざる者、是れ什麼人ぞ)
これは、龐蘊居士の言葉である。龐蘊は、以上のように石頭希遷禅師に問うて、万法とともならない、什麼人、つまりは独立無依の人について問題提起した(後には同じことを、馬祖道一禅師にも聞いた)。ここで、石頭禅師は、居士の口を押さえてそれで了解したという。そのような者は、余計な言葉で言い表すべき存在ではないのだ。ところで、この言葉をもし、道元禅師が転用していたらどうだろうか。道元禅師には「什麼人」を「なにびと」と考える様子がある。「なにびと」であるから、この存在は、容易に我々の理解を許さない。同時に、この「なにびと」から観られるとき、一切の存在は「ともならざる万法」である。よって、「なく」「なく」と続く一文が出てくることとなる。
万法から、「われ」への関係と進めようとすると、やはり「無我」などの話になりそうだが、あくまでも「万法」と「我=なにびと」との関係で見ていくとき、この「ともにあらざる」が活きてくる。よって、実は、この「現成公案」巻冒頭の、第二句目というのは、「なにびと」から見られた「万法」の様子を示したものであり、これは玄妙すぎる道理を示したといえる。だからこそ、第三句目では、豊倹を跳出という話になっていくのであろう。とりあえず、詳しい追究は不十分ではあるが、宗乗を把握していくプロセスでは、こういう記事も必要であろう。
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万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。
『正法眼蔵』「現成公案」巻
この「万法ともにわれにあらざる」という一句について、果たしてどう理解を進めていくべきか?従来の学僧方には、多くの問題提起をされているけれども、例えば、「われにあらざる」を「無我」や「無自性」と捉え、無我だから、「まどひなく」以下の「なく」の文章が続くという話もあるのだが、果たしてこれは正しいのだろうか?確かに、諸法空であれば、「不生不滅」「不垢不浄」などのように、「不」で論じられる事態とはなろうが(『般若心経』)、しかし、それならば、「現成公案」巻の文章は、「まどはず」「さとらず」、「生ぜず」「滅せず」などと書くのではないだろうか?これらは、そのものが「無い」といい、存在そのものを否定している。確かに、『般若心経』に依れば、「無無明亦、無無明尽」などとも書くので、存在の無さにも入ってきそうだが、これは「無我だから」というよりは、「空だから」である。「無我」ということは、実体が無いのであって、存在そのものが無いわけではない。しかも、「ともにわれにあらざる」とあるが、この「とも」とは一体何であろうか?
何かに伴っているのだろうか?
こう考えるとき、いつもこの「現成公案」巻の一節を理解するのが、非常に困難であった。ただ、最近では、或る人の言葉を通して、この一節は、次の様に理解すべきであろうとも思っている。
不与万法為侶者、是什麼人。
(万法と侶たらざる者、是れ什麼人ぞ)
これは、龐蘊居士の言葉である。龐蘊は、以上のように石頭希遷禅師に問うて、万法とともならない、什麼人、つまりは独立無依の人について問題提起した(後には同じことを、馬祖道一禅師にも聞いた)。ここで、石頭禅師は、居士の口を押さえてそれで了解したという。そのような者は、余計な言葉で言い表すべき存在ではないのだ。ところで、この言葉をもし、道元禅師が転用していたらどうだろうか。道元禅師には「什麼人」を「なにびと」と考える様子がある。「なにびと」であるから、この存在は、容易に我々の理解を許さない。同時に、この「なにびと」から観られるとき、一切の存在は「ともならざる万法」である。よって、「なく」「なく」と続く一文が出てくることとなる。
万法から、「われ」への関係と進めようとすると、やはり「無我」などの話になりそうだが、あくまでも「万法」と「我=なにびと」との関係で見ていくとき、この「ともにあらざる」が活きてくる。よって、実は、この「現成公案」巻冒頭の、第二句目というのは、「なにびと」から見られた「万法」の様子を示したものであり、これは玄妙すぎる道理を示したといえる。だからこそ、第三句目では、豊倹を跳出という話になっていくのであろう。とりあえず、詳しい追究は不十分ではあるが、宗乗を把握していくプロセスでは、こういう記事も必要であろう。
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