「耳学問」というのは、文献を読んだりして学ぶ方法ではなくて、とにかく「聞き書き」を繰り返して学ぶ方法です。聴講を繰り返すということになりますが、その必要性を痛感する出来事があったので、記事にしてみます。
拙僧、「折口信夫」氏のこと、つい昨日まで、「おりぐちのぶお」だと思っておりました(笑)そうしたら、研究所の先生方に「“しのぶ”だよ」と突っ込まれ、それで自らの不明を恥じたのであります。というか、よくよく考えてみると同じミスは、繰り返しているので、あぁ、またか?という感じですけれども・・・
ちょっと前にも、「薄田泣菫」氏のこと、拙僧は「うすだきゅうきん」だと思っていたのですが、やはり研究所の或る先生から「“すすきだ”だよ」と突っ込まれ、その時にも不明を恥じました。いや、正確にはいつものミスだと思っていたのですけれども、要は、折口氏も、薄田氏も、その著作は良く読んでいるので、名前の字面は知っているのはもちろん、その読み方も、知らずに当て嵌めているわけですが、でも、ここで間違えるという事があるわけです。
思えば、だいたい本の最後には、著者の名前に、ルビ・読み仮名が振られたり、ローマ字表記がしてあったりするわけで、それを確認していれば間違うはずもないわけですが、拙僧が興味を持っているのは、本の内容であって、著者の名前ではないということで、その部分は読まないわけです。で、間違えると・・・ついでにいえば、2人の「元」、中村博士も田辺博士も、ともに読み方は「はじめ」。岩波文庫で確認しました。
いや〜折口氏なんて、この方についての研究発表も何度か聞いているにも関わらず、昨日まで気付かなかったというのは、拙僧自身、余程強く「のぶお」だと思い込んでいたようです。思い込んでいると、正しく「しのぶ」と聞いていても、分からないわけです。思い込みは恐いものです。
そこで、やはり「耳学問」というのも大切だと思うわけです。通常、「耳学問」というと、「自分で修得したものでなく、人から聞いて得た知識。聞きかじった知識」などの意味であり、良い意味としてばかり使われるわけではありません。しかし、これも極めると、立派な学問となるのです。
以前、と或る御老師とお話ししていた時、その御老師は、本当に良く随身しておられた方で、色々なことを聞いて知っておられました。「○○禅師は、こういうことを言っていてね〜」とか、「●●老師は、こんなことを良く話したな」とか、情報はもの凄いものがあります。すると、拙僧のような学びをする者だと、だいたいその方々の発言の「出典」が分かるので、「あぁ、それは『正法眼蔵』の中に書いてあることを受けて話されたのですね」とか「合いの手」を入れるわけです。すると、その御老師は、「そうだったの?」と驚きつつ仰ることがあって、かえって拙僧も驚いたことがあります。完全に、聞いていて、その言葉を知っているのに、本で確認しておられないわけです。これは、「だから何だ?」と評価をしたいのではなくて、「こういう学び方がある」、と紹介したいのです。結局、本で読もうと、聞いていようと、どちらも、自分のモノになっていさえすれば良いわけですから、同じことをしているわけです。
示ニ云ク、学道の人、参師聞法の時、能々窮メて聞キ、重ネて聞イて決定すべし。問フべきを問はず、言ふべきを言はずして過ゴしなば、我ガ損なるべし。
『正法眼蔵随聞記』巻1-11
道元禅師には、以上のような教えがあります。つまり、師に就いて教えを聞く時には、よくよく窮めて聞き、重ねて聞いて、自らの見解として決定すべきだというのです。徹底した「聞法」の重要性を説いている箇所として知られています。この辺からも、曹洞宗で、「坐れば分かる」と学人を撥ね付けてしまうのは、決して良いことではないと分かります。師は、弟子の質問に答える義務があるのです。いや、それができないのなら、弟子など取るべきではないのです。
師は必ず弟子の問ふを待ツて発言するなり。心得〈経〉たる事をも、幾度も問ウて決定すべきなり。師も、弟子に能々心得たるかと問ウて、云ひ聞かすべきなり。
同上
よって、師は必ず、弟子が問い終わるのを待って発言すべきであり、更には「心得たか?」とよくよく聞いて、言い聞かせるべきだとしています。勘違いしている人が多いようなので、改めて申し上げますと、師としては、「自分の見解を弟子が聞く」ことが問題ではないのです。「正しき道理を把握する」ことが肝心なのです。無論、師の見解=正しき道理であることが多いので、この「混同」は致し方ないところがありますが、ただ「師の力量」を見せて、弟子の鼻っ柱を折ることで喜ぶ人もいるようなので、敢えて混同を指摘したわけです。無論、それでは話になりません。弟子に正しき道理を伝えるため、敢えて師の側で折れることも必要です。全く道理も分かっていない弟子に対して、折れる必要はありませんが、その折れるポイントの見極めくらい出来なくては、師になる資格など無いわけです。
話を戻しますが、このように、繰り返し聞くことが必要です。そうでないと、いたずらに間違いを犯しつつ、自分で気付かないことがあります。拙僧の場合が良い例です。いや、だとすると、やはり持つべき者は弟子ではなく、良き師だということになるのでしょう。ここまで考えると、明恵上人が「我は師をば儲けたし、弟子はほしからず」(「梅尾明恵上人遺訓」、岩波文庫『明恵上人集』204頁)と仰るのも身に染みますね。
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拙僧、「折口信夫」氏のこと、つい昨日まで、「おりぐちのぶお」だと思っておりました(笑)そうしたら、研究所の先生方に「“しのぶ”だよ」と突っ込まれ、それで自らの不明を恥じたのであります。というか、よくよく考えてみると同じミスは、繰り返しているので、あぁ、またか?という感じですけれども・・・
ちょっと前にも、「薄田泣菫」氏のこと、拙僧は「うすだきゅうきん」だと思っていたのですが、やはり研究所の或る先生から「“すすきだ”だよ」と突っ込まれ、その時にも不明を恥じました。いや、正確にはいつものミスだと思っていたのですけれども、要は、折口氏も、薄田氏も、その著作は良く読んでいるので、名前の字面は知っているのはもちろん、その読み方も、知らずに当て嵌めているわけですが、でも、ここで間違えるという事があるわけです。
思えば、だいたい本の最後には、著者の名前に、ルビ・読み仮名が振られたり、ローマ字表記がしてあったりするわけで、それを確認していれば間違うはずもないわけですが、拙僧が興味を持っているのは、本の内容であって、著者の名前ではないということで、その部分は読まないわけです。で、間違えると・・・ついでにいえば、2人の「元」、中村博士も田辺博士も、ともに読み方は「はじめ」。岩波文庫で確認しました。
いや〜折口氏なんて、この方についての研究発表も何度か聞いているにも関わらず、昨日まで気付かなかったというのは、拙僧自身、余程強く「のぶお」だと思い込んでいたようです。思い込んでいると、正しく「しのぶ」と聞いていても、分からないわけです。思い込みは恐いものです。
そこで、やはり「耳学問」というのも大切だと思うわけです。通常、「耳学問」というと、「自分で修得したものでなく、人から聞いて得た知識。聞きかじった知識」などの意味であり、良い意味としてばかり使われるわけではありません。しかし、これも極めると、立派な学問となるのです。
以前、と或る御老師とお話ししていた時、その御老師は、本当に良く随身しておられた方で、色々なことを聞いて知っておられました。「○○禅師は、こういうことを言っていてね〜」とか、「●●老師は、こんなことを良く話したな」とか、情報はもの凄いものがあります。すると、拙僧のような学びをする者だと、だいたいその方々の発言の「出典」が分かるので、「あぁ、それは『正法眼蔵』の中に書いてあることを受けて話されたのですね」とか「合いの手」を入れるわけです。すると、その御老師は、「そうだったの?」と驚きつつ仰ることがあって、かえって拙僧も驚いたことがあります。完全に、聞いていて、その言葉を知っているのに、本で確認しておられないわけです。これは、「だから何だ?」と評価をしたいのではなくて、「こういう学び方がある」、と紹介したいのです。結局、本で読もうと、聞いていようと、どちらも、自分のモノになっていさえすれば良いわけですから、同じことをしているわけです。
示ニ云ク、学道の人、参師聞法の時、能々窮メて聞キ、重ネて聞イて決定すべし。問フべきを問はず、言ふべきを言はずして過ゴしなば、我ガ損なるべし。
『正法眼蔵随聞記』巻1-11
道元禅師には、以上のような教えがあります。つまり、師に就いて教えを聞く時には、よくよく窮めて聞き、重ねて聞いて、自らの見解として決定すべきだというのです。徹底した「聞法」の重要性を説いている箇所として知られています。この辺からも、曹洞宗で、「坐れば分かる」と学人を撥ね付けてしまうのは、決して良いことではないと分かります。師は、弟子の質問に答える義務があるのです。いや、それができないのなら、弟子など取るべきではないのです。
師は必ず弟子の問ふを待ツて発言するなり。心得〈経〉たる事をも、幾度も問ウて決定すべきなり。師も、弟子に能々心得たるかと問ウて、云ひ聞かすべきなり。
同上
よって、師は必ず、弟子が問い終わるのを待って発言すべきであり、更には「心得たか?」とよくよく聞いて、言い聞かせるべきだとしています。勘違いしている人が多いようなので、改めて申し上げますと、師としては、「自分の見解を弟子が聞く」ことが問題ではないのです。「正しき道理を把握する」ことが肝心なのです。無論、師の見解=正しき道理であることが多いので、この「混同」は致し方ないところがありますが、ただ「師の力量」を見せて、弟子の鼻っ柱を折ることで喜ぶ人もいるようなので、敢えて混同を指摘したわけです。無論、それでは話になりません。弟子に正しき道理を伝えるため、敢えて師の側で折れることも必要です。全く道理も分かっていない弟子に対して、折れる必要はありませんが、その折れるポイントの見極めくらい出来なくては、師になる資格など無いわけです。
話を戻しますが、このように、繰り返し聞くことが必要です。そうでないと、いたずらに間違いを犯しつつ、自分で気付かないことがあります。拙僧の場合が良い例です。いや、だとすると、やはり持つべき者は弟子ではなく、良き師だということになるのでしょう。ここまで考えると、明恵上人が「我は師をば儲けたし、弟子はほしからず」(「梅尾明恵上人遺訓」、岩波文庫『明恵上人集』204頁)と仰るのも身に染みますね。
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