「閑話休題」という言葉だが、「話を本筋にもどすこと」が本来の意味である。閑話を休題するということなのだろう。文字通りの閑話(無駄話)をすることではない。となると、この記事は、どの「筋」に戻す記事なのだろうか。或いはこのブログにとって「閑話」とは何なのだろうか?普段の記事だろうか・・・
最近、改めて自分の仕事の得手不得手を痛感することが続いているので、反省も込めて記事にしておきたい。
拙僧自身、どのような内容であっても、どのような評価であっても、仕事というのは、とりあえず自分で受けておくというスタンスを取っている。なお、「評価」には「報酬」を含めている。自分で自分に価値を付けることは出来ないから、報酬というのは気にしたことはない。単発であれば持ち出しで仕事をすることもある。無論、それは長続きしないことは分かった上でである。この辺、自分でただ仕事するだけなら、こんなに楽な話は無い。その意味での努力は惜しまないつもりである。これは得手というべきなのかもしれない。とはいえ、自分への不信感と、無能さとを味わいつつの仕事というのは、それなりに厳しいものがあることも承知している。
ただ、昔からそうなので、今更改めることも出来ないのだが、拙僧は人付き合いが苦手である。にもかかわらず、最近、あちこちから、人を紹介して欲しいという依頼を受ける。今の仕事の様子などから、拙僧自身に「人脈」があると思っておられる人がいるらしい。しかし、拙僧はその意味での「脈」形成が決定的に苦手である。よって、最近はこの関係の仕事、上手く行っていない。それで、諸方面に迷惑も掛けている。
まぁ、苦手なことだが、先にも挙げたように、仕事を断らないというスタンスなので、とりあえず受けてしまう。でも、今後は最初からハッキリ言った方が良いのかもしれない。現実の世界でもその通りだから、ネットでもフェイスブックやTwitterなどにアカウントは持っているし、最低限の活用くらいはしているが、長々とそれで、誰かとの繋がりを持とうとするということはない。SNS台無し(笑)
おそらく、人付き合いが苦手だから、人付き合いがめんどくさいのである。
こんなことを思いつつ、とりあえず「僧侶」はこの辺、苦手でも何とかなるのかもしれないが(ただ、本来的に僧伽としての共同性を思うと、単純ではない。いや、和合衆を本質とするのならば、波風立てなければ良いという話か)、特に「住職」となると、人付き合いが上手くないと、檀信徒からの信頼が得られないということがある。今、一応副住職という肩書きにはなっているにも関わらず、その肩書きほど自分の寺に貢献しているわけではないが、今後のことを考えると、正直、大丈夫か?という思いもする。
ところで、拙僧どもの子供の頃というのは、何でもかんでも価値付けをすることが必要となっていたような世界であって、拙僧はそれに疲れたこともあった。よって、価値付けしなくて済むような仏教の世界に入ったともいえる。とはいえ、一切の価値付けと無縁でいられるわけではない。この価値付けは、人付き合いのめんどくささを生む原因の1つである。要は、比べて、どちらが上だ下だとすることは、もうどうでもいいと思っているので、比べないというのではなくて、自分の評価を無視するという話である。
どうでもいいという考えが、明恵上人くらい徹底していれば、とっとと山奥に引っ込んで、独り修行生活でもするのだろうか。そういえば、明恵上人は紀州苅磨の「嶋」に手紙を送り、その中で、「海雲比丘」を友として修行するとか何とか書いていた気もする。「海雲比丘」とは、そういう人の名前ではなくて、海や雲を比丘とし、友とするという話である。確かに楽そう・・・あぁでも、鈴木正三はそういう心根を批判していたような?そうそう、【禅僧は山居すべきかせざるべきか(2)】という記事であった。
さて、今晩は『正法眼蔵』の勉強会。「海印三昧」巻を学ぶわけだが、巻中に見える「包含万有」という事、理念としては分かるが、実践的な話としては、拙僧には難しそう。
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最近、改めて自分の仕事の得手不得手を痛感することが続いているので、反省も込めて記事にしておきたい。
拙僧自身、どのような内容であっても、どのような評価であっても、仕事というのは、とりあえず自分で受けておくというスタンスを取っている。なお、「評価」には「報酬」を含めている。自分で自分に価値を付けることは出来ないから、報酬というのは気にしたことはない。単発であれば持ち出しで仕事をすることもある。無論、それは長続きしないことは分かった上でである。この辺、自分でただ仕事するだけなら、こんなに楽な話は無い。その意味での努力は惜しまないつもりである。これは得手というべきなのかもしれない。とはいえ、自分への不信感と、無能さとを味わいつつの仕事というのは、それなりに厳しいものがあることも承知している。
ただ、昔からそうなので、今更改めることも出来ないのだが、拙僧は人付き合いが苦手である。にもかかわらず、最近、あちこちから、人を紹介して欲しいという依頼を受ける。今の仕事の様子などから、拙僧自身に「人脈」があると思っておられる人がいるらしい。しかし、拙僧はその意味での「脈」形成が決定的に苦手である。よって、最近はこの関係の仕事、上手く行っていない。それで、諸方面に迷惑も掛けている。
まぁ、苦手なことだが、先にも挙げたように、仕事を断らないというスタンスなので、とりあえず受けてしまう。でも、今後は最初からハッキリ言った方が良いのかもしれない。現実の世界でもその通りだから、ネットでもフェイスブックやTwitterなどにアカウントは持っているし、最低限の活用くらいはしているが、長々とそれで、誰かとの繋がりを持とうとするということはない。SNS台無し(笑)
おそらく、人付き合いが苦手だから、人付き合いがめんどくさいのである。
こんなことを思いつつ、とりあえず「僧侶」はこの辺、苦手でも何とかなるのかもしれないが(ただ、本来的に僧伽としての共同性を思うと、単純ではない。いや、和合衆を本質とするのならば、波風立てなければ良いという話か)、特に「住職」となると、人付き合いが上手くないと、檀信徒からの信頼が得られないということがある。今、一応副住職という肩書きにはなっているにも関わらず、その肩書きほど自分の寺に貢献しているわけではないが、今後のことを考えると、正直、大丈夫か?という思いもする。
ところで、拙僧どもの子供の頃というのは、何でもかんでも価値付けをすることが必要となっていたような世界であって、拙僧はそれに疲れたこともあった。よって、価値付けしなくて済むような仏教の世界に入ったともいえる。とはいえ、一切の価値付けと無縁でいられるわけではない。この価値付けは、人付き合いのめんどくささを生む原因の1つである。要は、比べて、どちらが上だ下だとすることは、もうどうでもいいと思っているので、比べないというのではなくて、自分の評価を無視するという話である。
どうでもいいという考えが、明恵上人くらい徹底していれば、とっとと山奥に引っ込んで、独り修行生活でもするのだろうか。そういえば、明恵上人は紀州苅磨の「嶋」に手紙を送り、その中で、「海雲比丘」を友として修行するとか何とか書いていた気もする。「海雲比丘」とは、そういう人の名前ではなくて、海や雲を比丘とし、友とするという話である。確かに楽そう・・・あぁでも、鈴木正三はそういう心根を批判していたような?そうそう、【禅僧は山居すべきかせざるべきか(2)】という記事であった。
さて、今晩は『正法眼蔵』の勉強会。「海印三昧」巻を学ぶわけだが、巻中に見える「包含万有」という事、理念としては分かるが、実践的な話としては、拙僧には難しそう。
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