Quantcast
Channel: つらつら日暮らし
Viewing all articles
Browse latest Browse all 15788

『修証義』の中心はどこか?

$
0
0
現行の『修証義』は、当初の『洞上在家修証義』の頃には整備されていなかった章立てが出来、その上で第1章・総序、第2章・懺悔滅罪、第3章・受戒入位、第4章・発願利生、第5章・行持報恩と組織された。この第2章以下の4章が、そのまま曹洞宗の教化に於ける「四大綱領」となっていることは、『曹洞宗宗制』に見える通りである。

さて、もちろん、突き詰めればこの4章共々に重要だという話になるのだろうが、このどこに重心を置くかは、議論のあるところであろうと思う。それで、議論の一例を見てみたい。

 『修証義』は高祖大師の『正法眼蔵』中より四大綱領に適合する様な文句を、抜萃編輯したもので、中心は受戒入位にある。
 〈中略〉要するに『修証義』はこの『教授戒文』を通俗化し、一般大衆に授くるに至ったもので、宗門では釈尊以来嫡伝の戒法を民衆化したものに過ぎないのである。
    孤峰智璨禅師『曹洞宗意概説』2〜3頁

孤峰禅師は、大本山總持寺独住第18世の貫首猊下であり、昭和32年から同42年まで猊座におられた。師家でもあり、また同時に優れた学者でもあって、『日本禅宗史要』や、『常済大師全集』などの著作、10数種を世に問われた。この『曹洞宗意概説』は、元々『曹洞宗安心之栞』として出されたものであったが、その後増補してこの名となった。内容としては、当時流行していた共産主義や資本主義といった社会の諸思想との対決を行い、また、仏教の本義、禅宗の本義、曹洞宗の本義、そして、本宗安心の概要を、『修証義』全体の解説、就中「第3章・受戒入位」から説き明かしたのである。

そして、「戒」について論じると、多くの方は聞きかじった知識を使って、「現在の日本仏教には戒が無い」とか、「妻帯して憚らない日本の僧侶が戒を語るのはおかしい」などということであろう。しかし、拙僧は勿論、誰憚ることなく戒を説くし、授けもする。その資格は十二分に保有している。その理由について、孤峰禅師の御垂示を参照させていただこう。

かかる本証の禅戒であるから、戒法を持つのではない、唯だ戒法を受けさえすればよいのである。故に、本宗の戒法には開遮持犯を論ぜないのである。唯だ受戒を以つて仏位に入るのである。普通一般では、戒とは非を防ぎ、悪を止むるの意であるが、本宗の意では善悪一等であるから、悪の認むべきものがないのである。
    前掲同著54頁

色々と批判の出る考え方なのかもしれないが、孤峰禅師の御垂示の根底には、本来成仏論がある。本来成仏の上で、修行実践を模索すると、上記の御垂示に至るといえる。余談になるが、よく道元禅師の思想を語る上で取り沙汰される「本証妙修」と、「本来成仏」というのは、おそらく微妙に違っている。それは、元々成仏した存在である、ということと、元々悟りや、仏法が具わった存在である、というのは、その価値に於いて異なる様相を示すためである。

道元禅師はその意味で、「本来成仏論」を説いたわけではないと思われる。ただ、勿論曹洞宗の宗旨や教義は、道元禅師の著作のみで完結するものではない。ただ、「本来成仏」というと、道元禅師が毛嫌いされたとも伝わる『円覚経』に、「始めて知る、衆生本来成仏なることを」と説かれているが、これは果たして、道元禅師の容れるところだったのであろうか?

仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。
    『正法眼蔵』「仏性」巻

この一節だけでは、道元禅師の「成仏論」を語り尽くすことは到底出来ないけれども、ただここで、「成仏」に前後があることだけは分かる。その意味では、「本来成仏論」というのは、この「前後性」を無化する思想であることは明らかだといえる。要は、アポステリオリ的な成仏から、アプリオリ的な成仏への変更だからである。

話を戻すが、しかし、先の孤峰禅師の御垂示から、「本来成仏論」を抜いたとしても、先の文脈はまだ価値を失わない。それは、やはり「菩薩戒」の特質である、一得永不失や、善悪一等という発想である。菩薩戒は、捨戒が出来ない。一度受ければ、永久にその身に戒徳が具わるという。或いは、菩薩戒は、破戒が出来ない。同じく、「破れない」ためである。ここから、実践的な領域で、誤解を招く可能性もあるが、ここから、だからといって何をしても良い、とはなってはならないのが「禅戒」である。

破戒が出来ない、とはいえ、その理由は、戒徳が具わるためであり、この戒徳に催されて、我々は、必ず善行を勤む。この「善行」も、世俗的な価値に於ける善悪で語るのではない。あくまでも、菩薩の誓願の成就という意味で、出世間的善行といえる。だからこそ、孤峰禅師は「普通一般では、戒とは非を防ぎ、悪を止むるの意である」と示し、更にその否定を説かれるが、御垂示を大切に拝受せねばならない。

我々曹洞宗侶は、この戒を通して、世間を少しでも良くしていこうという大誓願の中を歩む存在なのであり、いたずらに、破った・護ったなどの次元で話をしているのではない。ただ、もし戒を受けた人が、何かの場面で、その戒によって自らへの誡めを覚えた時、それこそが「戒徳」の発露といえる。よって、極めて通俗的道徳観に混同される可能性も無しとはしないけれども、その意味での人としての良心に素直に向かう可能性を、僅かでも高めていくこと、それが我々の受戒・持戒ともいえる。そして、実は、それがとても大切なのだ。この良心へ素直に向かうことがない場合、結局は、人のための行動など出来ようもないためである。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗7〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 15788

Trending Articles