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「文化の日」に『禅と日本文化』を読んでみた

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『禅と日本文化』(岩波新書、2010年第79刷!!)は、鈴木大拙居士の著書で或る。元々は英語圏で刊行された英文の本であったが、北川桃雄氏によって邦訳されている。今日11月3日は「文化の日」であるから、その日にこの本を読み進めてみることは、決して悪いことではあるまい。この本について、拙僧は2度程読み進めたことがあったが、いつも微妙な感想を得た。それは2点についてである。1点目は、本当に大拙居士がいう程に、日本文化に禅が浸透しているのか?というところである。2点目は大拙居士が説明のために引用する禅語・偈頌の理解について、正確か否かというところである。

なお、以前、【鈴木大拙居士と道元禅師】という記事で書いたように、大拙居士は故実についての把握は、決して正確とはいえない。それは、大拙居士の著書が書かれた時代的限界もあるとは思うのだが、しかし、同時代の曹洞宗関係の文献でも引用されていないような文脈を、前面に提示するのは如何かと思う。ただし、この『禅と日本文化』にそこまでの学術的厳密さを要求するのは酷である。元から、そのように書かれていないためだ。

・この本はもともと外国人のためにといって書いたものだが、それでも邦文に直して邦人に読んで貰えば、また何か利益になるか、参考になることもあらんかというので、こんなものができたわけである。もとから自分の国の人に読んで貰うようにと書くなら、また大分書き方もある。もっと研究的に書いて見たいという気もないでもない。
・かならずしも学術的精確性を期せぬ。
    前掲同著、原著者序

よって、拙僧がいう2点目は勝手な論難というだけである。しかし、大拙居士の文章によって、何らかの誤解――特に禅といっても、臨済宗のことならば元々大拙居士は臨済の人だから仕方ないが、宗風・家風の異なる曹洞宗についての誤解が広がるようなことがあれば困るので、その点は決然と指摘する必要があろう。今のところ、その部分は見当たらないが。また、1点目については、一種の「史観」に属する話であるので、大拙居士が用いている「史観」の批判を伴って行われねばならない。これは大変な作業である。とても本ログ程度の文面でどうこうできる話では無い。まずは、『鈴木大拙全集』を読みこなしてから、という話になるだろう。今の拙僧には、その時間が無い、悪しからず・・・

さて、徐々に『禅と日本文化』の話をしていきたいのだが、内村鑑三が『代表的日本人』(岩波文庫)で、上杉鷹山や日蓮上人などをその代表に挙げていることは、周知のことと思う。大拙居士に於ける「代表的日本人」には、意外(?)な名前が挙がっている。

日本の歴史を通じて、最も典型的な日本人は誰だというと、上杉謙信、伊達政宗、千利休などを挙げてみたくなる。こんな人々を今日活かして、各方面に世界の舞台に上せたら、どんな役割を演ずることだろうか。人物本位の日本文化観もまた意義あるものと考える。
    前掲同著、原著者序

宮城出身の拙僧としては、ここに伊達政宗公を挙げていただいたことは、何やら有り難い反面、理由を問いたくなる。「人物本位の日本文化観」が上梓されていれば確認出来たのかもしれないが、それは大拙居士、抱えて黄泉に進まれてしまったようで、如何ともし難い。話を戻すが、大拙居士の『禅と日本文化』は全7章である。以下に列挙する。

第一章 禅の予備知識
第二章 禅 と 美術
第三章 禅 と 武士
第四章 禅 と 剣道
第五章 禅 と 儒教
第六章 禅 と 茶道
第七章 禅 と 俳句

拙僧などはこういう「選び方」に、若干の不満を感じるのである。つまり、「美術」や「武士」というのは、文化というには広範に過ぎる話であって、特に「武士」は歴史的遺物であり、現在は或る種のメタファーである。さておき、「剣道」以下については、これが「禅に都合の良いように選ばれた日本文化」ではないのか?と疑問視し、同時に或る種の危惧を覚えるのである。ただ、それを論じ出すと、別の日本文化の基軸を出さねばならなくなるので、それはいずれかの機会に論じられれば論じるとして、今日は今日で記事をまとめておこう。今日は、(全章は追えないが)各章に於いて、大拙居士が禅の定義をどのように行い、その上で各事象とどのように接点を見出しているかを考えたい。

非均衡性・非相称性・「一角」性・貧乏性・単純性・さび・わび・孤絶性・その他、日本の芸術および文化の最も著しい特性となる同種の観念は、みなすべて「多即一、一即多」という禅の真理の中心から認識するところに発する。
    「第二章 禅と美術」

行き当たりばったりで、連続性に欠け、金を掛けずに出来上がる芸術、それは禅に於ける真理を淵源とするということになろうか。難しい言葉が並んでいるが、大拙居士のいわんとするところを“適切に翻訳”すれば、そのようになろう。以前から、禅というのは「シンプル」であるというような指摘をされる方がいたりして、ウチの宗派でもそんなタイトルの本を出しておられる方がいるが、大拙居士のいう「多即一、一即多」をそのまま受け取れば、シンプルは、いわゆるの「一性」ということになるのだが、それが一でおれないような生成力動性を持つと解釈されるべきである。

それはつまり、シンプルというのは、禅、或いは芸術の先鋭的側面というだけであって、それがそれしか無いとすれば、それは禅の名折れであるし、多分、ただの杜撰な学びである。禅のシンプルさというのは、複雑さを含んだシンプルさであって、それは例えば、単純即是恁麼単純、複雑即是恁麼複雑である。問題は「恁麼」である。恁麼は、道元禅師が指摘されるように「直趣無上菩提」である。いわば、単純は単純で即恁麼であって、複雑は複雑で即恁麼であって、それが直に無上菩提に趣く。直に無上菩提に趣くから、不思量にして現じ、不回互にして成ずる単純・複雑、只這是である。この最後に挙げた一句、言葉や概念の一切を脱落して、しかしその上でもなお、その単純さ、複雑さの実相を言い当てなくてはならぬ時の「只這是」、もし「シンプル」をここで道得八九成するならば、許そう。

禅は道徳的および哲学的二つの方面から彼らを支援した。道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。
    「第三章 禅と武士」

このように書かれてしまうと、なるほど、と納得してしまうのだが、例えば、「禅」の教えに「百尺竿頭」上に於いてどう振る舞うか?という教えがある。大拙居士は「進一歩」を、無意識的に選択している印象なのだが、この語には「退一歩」もある。或いは道元禅師が仰る「住一歩」(『永平広録』巻1)もある。そうなると、進一歩的文脈で「振り返らぬ」とはいわれるが、しかし、そこで敢えて振り返る教えや留まる教えもあるからには、恣意的な文脈選択といえる。要するに、禅の性格で、特に曹洞宗的宗風の中に見える「選択肢の多様さ」で勝負するような境地を切り捨てているのだ。道元禅師が示される『正法眼蔵』「心不可得」巻に於ける徳山宣鑑と一婆子との問答への処し方は、まさにこの選択肢の多様さを促す文脈である。「●●ともいえるではないか、いえれば良し」という話である。これは、進一歩だけで猪突猛進するのとは違っている。無論、場合によっては、一切の恩愛をうち捨てて進むことも必要だ。だが、そればかりを禅とは出来ないのだ。

哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。直覚の方が真理に到達する直接的な道であるからだ。
    同上

知性と直覚との対立。禅が直覚的だというのは、その通りであるかもしれない。しかし、大拙が模索するこの直覚の内容が、余りに一面的すぎる感が否めない。要は、直覚というのは、事象に対する直接的感覚を意味するが、実はこの直接の関わりの中でも、選択肢を開く事が出来る。最近のシステム論・行為論では、この選択肢を開拓しようとしている。その21世紀の行為哲学・人間科学からいうと、大拙の直覚は余りに担板漢的であるし、かつての祖師方が道取されたのも、この選択肢を失ってはいないと思うのである。

禅は活人剣と殺人剣ということを語る。そのいずれを、いついかなる風に、使うべきかを知るのは、すぐれた禅匠の働きである。
    「第四章 禅と剣道」

確かに活人剣と殺人剣という言葉はある。ただ、これは物理的な剣を振りかざすのでは無い。仏法が良くその参ずる人を活かし、同時に、煩悩に塗れた生来の自己を叩っ切る様子を喩えたのである。よって、活人と殺人が二重的に具わる。これはつまり、一方で「無我」を推し進める働きであり、もう一方で「真の我」を活かすのである。大拙居士は、その要素が武士道に於いて働き、同時に剣道の世界に於いて理念化されたという。なお、剣術は仏教のみならず、神道とも関わりがあったが、大拙居士は、神道のみと関わるだけであれば、今のような剣道にはならなかったであろうという。それは、神道に於ける「剣」は、象徴になりきれず、高度な精神性に到らないためだという。後の昭和19年に書かれた『日本的霊性』でも、大拙居士は神道に対して、手厳しい印象を得るが、その路線は変わらなかったようである。

厳格にいえば、禅には自己の哲学というようなものは無い。その教えは直覚的経験に焦点をおき、この経験の知的内容はかならずしも仏教哲学に限られるというわけではない。いかなる思想体系からでも供給されうるといいえられる。
    「第五章 禅と儒教」

端的に、「何でも良かった」といいたげな言動である。しかし、一部の「純粋禅」なる虚構を追い求めるような人にとっては、非常に残念かもしれないが、この大拙居士の言葉は事実である。禅は、儒教や道教、或いは朱子学や西洋哲学、そういった様々な思想体系と、時には対決し、時には融合しながら自らの教えを構築し、展開し、世に広めてきた。しかし、その原点を直覚的経験に置く限り、直覚的経験をもたらす修行さえあれば、何でも良いということになる。その時、果たして「禅」というのは「仏教」の範疇に留まっていられるのだろうか?ここもまた、綱引きのしどころである。

禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直覚的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。
    「第六章 禅と茶道」

ここにも、先に挙げた「シンプル」の話に通ずるものがある。しかし、先に挙げた如くのそれであれば、認めよう。なお、物事の単純化は、同時に、作法の複雑さを脱して、その本質に迫らんとする力強い動性を持つことになる。曹洞宗でも、何やら呪文や作法に拘る一派がいるが、その者達は、大拙居士の定義でいうところの「禅」では無いといえよう。まぁ、当人達はどこ吹く風であろうが、しかし、複雑すぎる作法は、それを行ずる本人にとっての自信になると同時に、作法を知らない者に対する侮蔑となって現れる。これを、「自讃毀他」という。

しかし、よくよく考えてみれば、そのような複雑な作法は要らない。一例を「洒水」にとってみるが、別に、コップに入った水を、ただパッと撒けば洒水になるのだ。呪文が何故必要か?その場を有り難くするだとか、必要だと思っている人は必要な理由を持ち出すだろうが、密教的な行法は密教の世界観があって始めて成り立つのだ。我々禅宗に、その世界観は存在していたのだろうか?先の大拙居士がいうように、何でも良いというのなら有るのかもしれない。しかし、無いかもしれない。おそらく、どっちでも良くて、このどうでも良さが、作法を知っていても偉くなく、知らなくても問題が無いという事実に繋がる。この事実を前にした時、時間と手間暇と費用を掛けて学んだ人は、その「元」を取ろうと必死になって、「自讃毀他」するが、この必死さは滑稽である。文字通り「ヘソで茶が湧く」ほどだ。

不必要なものを除くことが、禅の本質であるならば、そうしたら良いと思う。問題は、その原点となる直覚的把握が、どれほどの内容かという事であろう。

禅は季節に移り変る自然のこれら普通のできごとにふかく関心をもつ。これらの直覚が俳句という詩的形式に表現されるとき、世界文学史における、まったくユニークなものをわれわれに与えるのである。
    「第七章 禅と俳句」

この章まで進んでくると、先ほどからくり返し現れる「直覚的経験」の説明が単調となり、大拙居士は省略するようになってしまう・・・ここには「不必要なものを除き去る」ことまで行われている。つまりは、大拙居士自身の文章が俳句的といえる。以前、俳句を作るときには、説明から冗語を除いて出来ると思っていたし、そう作ったこともあったが、おそらくそれは外れである。ただ、目の前にあることを、そのままに説明する。誰がそれを見ているとか、感じているとか、そういう余計な働きが不要である。だから、原型としては、それこそ蘇軾(蘇東坡)が詠んだ、渓声山色の偈頌なども同様である。

渓声便ち是れ広長舌、
山色清浄身に非ざる無し、
夜来八万四千の偈、
他日如何が人に挙似せん。
    『正法眼蔵』「渓声山色」巻

渓声を広長舌だと解釈したのでは無いし、山色を清浄身だと解釈したのでは無い。それでは、結局この偈頌全てが冗語である。そうではない。端的に渓声は広長舌で、山色は清浄身であり、常に八万四千の偈を説いていて、それは「如何」として人に挙似されている。ではこの事実を直覚した蘇軾、いや、本当に蘇軾が悟ったのだろうか?

畢竟じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。
    「渓声山色」巻

道元禅師は、この偈頌について、以上の提唱を施している。この隙間こそが曹洞宗の家風である。そして、この隙間を開いた問いによって、我々は、既に居士が山水を見聞するという構図自体が適用されていない、生の経験の前に佇むことになる。これで佇んでは、徳山を罵倒した婆子がいう「無魂屍子」と同じである。この時ばかりは、隙間に向かって進一歩しなくてはならない。そこで、始めて「俳句」に出会える気がする。

さて、様々な状況に於いて論じられた鈴木大拙『禅と日本文化』から、掻い摘んで思うところを示してみたが、この本自体が「直覚的経験」という、中々馴染みの無い概念でもって構成されていて、普通には理解し難いかもしれない。しかし、そのハードルくらいは越えてみないと、大拙居士が論じようとしていたところまでたどり着けない。更に、その大拙居士がいうことが、本当に正しいか否かを判断するのは、更にその先である。今日は「文化の日」であるが、そんなところまで進める日であれば良いと思う。

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