七五三の季節です。ここ数日、街中では着飾った多くのお子さんを見ることが出来ますね。ところで、七五三のルーツを調べていたら、元々は現在の群馬県館林にあった館林藩(館林徳川家)の藩主・徳川徳松(1679〜1683)の健康を願って、1681年12月に行われたのが最初と伝えられています。
しかし、この徳松君は5歳(数え年)で亡くなってしまいました。しかし、その後も、子どもの頃にその成長を願い行われるお祭りとして定着したようです。
それにしても、今回記事にしたのは、この徳松君(とくまつくん、では無くて、とくまつぎみと読んで欲しい)の法名であります。墓所が、東京都港区にある浄土宗大本山の増上寺にあるので、おそらくそこで付けられたものだとは拝察しますけれども、こんな立派な「童子法名」見たこと無い、っていうレベルです。
浄徳院殿霊岳崇心大童子
まず凄いのが院殿号。これは、たいがい一寺院を開いた開基家、またはそれと匹敵するほどの寄進をした大檀那くらいにしか付きません。名誉中の名誉、寺院によってはこの時の寄進の額でフェラーリが変えるほどです。いや、ここは敢えて、フェラーリ程度で院殿号が頂ける安さをこそ強調したいものです。
でも、我々も、その辺はよくよく承知していますから、縁有って、院殿号の戒名を読ませていただく場合には、いつも以上に背筋を伸ばしてしまうこともあります。それから、道号・戒名と続いて、あとは位階ですけれども、これが、普通の童子戒名なら「童子」「童女(女の子の場合)」などになるわけですが、ここにも一字追加されていて「大童子」となっています。
それにしても、我々、こう幼くして亡くなられた方には、どういう戒名(法名)を付けようか迷うわけですが、たいがいは、『般若経』などに出る、「空の十喩」から一字入れたり(ただ、これはさらに幼い孩子・孩女号の場合か)しますけれども、今回見てみた徳松君の場合、既に立派な大人向けの戒名のように見えますね。
それもそのはずで、徳松君は僅か5歳で亡くなられたとはいえ、一時は徳川家の世嗣(正式な世継ぎ)だったのです。父はあの、犬公方として世の人から揶揄された徳川綱吉で、綱吉は伯父である徳川家綱(4代将軍)に世嗣が無かったことから将軍家の後継者に選ばれ、それに伴い、綱吉の実子であった徳松君も、徳川将軍家の世嗣となり2歳で上野館林藩主となりました。
しかし、そういう経緯もあって、「七五三」の原点となるお祭りが行われたということです。ただ、その甲斐無く、徳松君は夭逝したわけですが、今の我々は自分の子供に、この徳松君の分まで強く生きて欲しいと願うべきなのかもしれません。その意味では、七五三は、ただ子供の健康を願うのみならず、同時に回向で無くてはならないとも思うのです。
また、父親の綱吉が出した「生類憐れみの令」については、世継ぎが居なかった綱吉に、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきたことがあったようで、だとすると、淵源は徳松君の夭逝にあるとも見られてきたわけですが、最近では、周辺の研究によって、この見解は否定されつつあります。
ただ、研究はそれとして、実子の夭逝を前にして、生き物全般に対する愛護の気持ちから出したというのは、或る意味自然だとも思うわけです。しかし、それを出したのが、一国の政治を司る将軍ともなると、ただでは済まされないわけで、この法令についての評価は、今に至るまで紆余曲折です。
話を戻しますが、ちょうど七五三で各地の社寺(七五三は神社のみならず、仏教寺院でも修行できます)が賑わう頃だと思います。最近では、少子高齢化で、こちらの人出も厳しいようですが、しかし、子を思う親の気持ちは、年代を超えて同じものだと思います。幾ら世の中が変わっても、手抜きをせずに勤めたいものです。
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しかし、この徳松君は5歳(数え年)で亡くなってしまいました。しかし、その後も、子どもの頃にその成長を願い行われるお祭りとして定着したようです。
それにしても、今回記事にしたのは、この徳松君(とくまつくん、では無くて、とくまつぎみと読んで欲しい)の法名であります。墓所が、東京都港区にある浄土宗大本山の増上寺にあるので、おそらくそこで付けられたものだとは拝察しますけれども、こんな立派な「童子法名」見たこと無い、っていうレベルです。
浄徳院殿霊岳崇心大童子
まず凄いのが院殿号。これは、たいがい一寺院を開いた開基家、またはそれと匹敵するほどの寄進をした大檀那くらいにしか付きません。名誉中の名誉、寺院によってはこの時の寄進の額でフェラーリが変えるほどです。いや、ここは敢えて、フェラーリ程度で院殿号が頂ける安さをこそ強調したいものです。
でも、我々も、その辺はよくよく承知していますから、縁有って、院殿号の戒名を読ませていただく場合には、いつも以上に背筋を伸ばしてしまうこともあります。それから、道号・戒名と続いて、あとは位階ですけれども、これが、普通の童子戒名なら「童子」「童女(女の子の場合)」などになるわけですが、ここにも一字追加されていて「大童子」となっています。
それにしても、我々、こう幼くして亡くなられた方には、どういう戒名(法名)を付けようか迷うわけですが、たいがいは、『般若経』などに出る、「空の十喩」から一字入れたり(ただ、これはさらに幼い孩子・孩女号の場合か)しますけれども、今回見てみた徳松君の場合、既に立派な大人向けの戒名のように見えますね。
それもそのはずで、徳松君は僅か5歳で亡くなられたとはいえ、一時は徳川家の世嗣(正式な世継ぎ)だったのです。父はあの、犬公方として世の人から揶揄された徳川綱吉で、綱吉は伯父である徳川家綱(4代将軍)に世嗣が無かったことから将軍家の後継者に選ばれ、それに伴い、綱吉の実子であった徳松君も、徳川将軍家の世嗣となり2歳で上野館林藩主となりました。
しかし、そういう経緯もあって、「七五三」の原点となるお祭りが行われたということです。ただ、その甲斐無く、徳松君は夭逝したわけですが、今の我々は自分の子供に、この徳松君の分まで強く生きて欲しいと願うべきなのかもしれません。その意味では、七五三は、ただ子供の健康を願うのみならず、同時に回向で無くてはならないとも思うのです。
また、父親の綱吉が出した「生類憐れみの令」については、世継ぎが居なかった綱吉に、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきたことがあったようで、だとすると、淵源は徳松君の夭逝にあるとも見られてきたわけですが、最近では、周辺の研究によって、この見解は否定されつつあります。
ただ、研究はそれとして、実子の夭逝を前にして、生き物全般に対する愛護の気持ちから出したというのは、或る意味自然だとも思うわけです。しかし、それを出したのが、一国の政治を司る将軍ともなると、ただでは済まされないわけで、この法令についての評価は、今に至るまで紆余曲折です。
話を戻しますが、ちょうど七五三で各地の社寺(七五三は神社のみならず、仏教寺院でも修行できます)が賑わう頃だと思います。最近では、少子高齢化で、こちらの人出も厳しいようですが、しかし、子を思う親の気持ちは、年代を超えて同じものだと思います。幾ら世の中が変わっても、手抜きをせずに勤めたいものです。
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