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在家仏教の隘路?久保田展弘氏『仏教の身体感覚』

実世界に於いて、坐禅人、及び禅宗修行に於ける身体論・行為論などについて、若干の研究を行っているというところから、この本はそのタイトルのみで選んでしまった。ただし、著者の久保田展弘氏は、曹洞宗関係の機関誌にも寄稿してくださっているので、とりあえず外れはしないだろうと思って読んでいたが・・・端的にいえば、この本は問いの立て方が悪い。よって、仏教に於ける身体感覚について、その本のタイトルとは裏腹に、ほとんど迫れていない印象である。普通に、『大乗仏教の諸修行』とかいうタイトルにして、合わせて「ブッダの身体」とかいう副題でも付ければ良かったのでは無いだろうか?

ということで、「大乗仏教の諸修行」という観点からは、この本は見るべきものがあるとして、通仏教的な身体感覚という観点からは、評価する箇所が無い。著者本人が、例えば南方仏教の修行を行うとか、或いは、日本でも天台宗の古い止観行を勤めるとか、そういう深まりがあっての上でなら分かるのだが、どうもそういう感じでも無い。また、著者は自ら在家信者であることを標榜していることは良いのだが、その観点からのみ大乗経典なり、その修行なりを評価しようとしている。これは、或る意味、近代仏教学が陥った世俗仏教重視の隘路から抜け出ていない。

近代仏教学の陥った問題の1つに、世俗仏教というカテゴリーがあると、拙僧は理解している。まぁ、近代仏教学、或いは鎌倉新仏教という虚構の構築に、非僧非俗を唱える浄土真宗が深く関わっていることもあり、この辺は致し方ないところではあるが、出家をやたらと聖性、超俗性ばかりに限定し、その上で「現実の僧侶」を批判することで、むしろ、仏教の真の担い手は「在家者」であるという主義主張が行われる事となった。これは、一部の宗派大学を除いて、諸大学に於ける仏教研究者が、在家者である場合が多いということとも相俟って、彼らの学説を通して世に広まることになった。

ところが、拙ブログでは、インド・中国・日本に於ける様々な事例の参究を通して、出家を、聖性や超俗性ばかりに限定することの無意味さ、翻って、虚構的な近代仏教学に於ける世俗仏教が現在の日本仏教の僧侶を批判することの無意味さを主張している。インドではブッダの時代にいたであろう六群比丘の問題を指摘した。また、日本に於いては、一部の研究者が葬式をしない奈良仏教寺院を評価するが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての説話に、当時の東大寺で酒宴を催していることが明らかになっているし、それは至極普通のことだったようだ。或いは、拙僧の実世界の研究にも関連してくるが、江戸時代初期から中期にかけての曹洞宗の学僧が書いた文章には、当時の僧侶が行っていた肉食妻帯がやはり採り上げられている。或いは、長野県内の寺院に伝わる、中世の清規(禅宗の軌範)には、節句ごとに酒を飲んでいた様子も明らかとなっている。

なるほど、聖性や超俗性というのは、宗教の宗教性を保持する1つの基盤ではあるが、決して絶対では無い。出家をそれとのみ限定することは、事実を歪め、そして無用な混乱を惹起する見解として、むしろ批判の対象になるべきであるといえる。

しかしながら、どうも、久保田氏は未だに近代仏教学運動の担い手であり、例えば、それは次のような一文からも明らかである。

 たとえば『ダンマパダ』(「法句経」)をたどればたどるほど、世俗の生活からの離脱を強調することばに出会い、死の肯定さえ迫ってくるのにたじろぐしかない。
 〈中略〉徹底した現世における価値観の否定が説かれていく。
 ならば、現に生きている私はどうなるのだろうか。〈中略〉世俗の生活からの離脱もなく、煩悩を滅ぼし尽くすこともできないまま、私の日常の底に仏教を置くことはできるのだろうか。
    『仏教の身体感覚』ちくま新書、27頁

釈迦牟尼仏、いわゆるゴータマ=ブッダには出家者にのみ教えを説いたわけでは無くて、在家人にも教えを説いている。そこには、世俗の生活の離脱のみでは無くて、普通に三宝への帰依と、戒〈在家五戒〉への帰依を説く教えが示され、善行を積むことによって、昇天することが説かれている。この辺は以前、【スダッタ長者への言葉】という記事でも書いた通りなのだが、それで何の問題があるのだろうか?

在家者が、在家であることを肯定するのなら、本来参照すべきは、ブッダが在家者相手に説いた文脈であり、出家者相手に説いた文脈であってはならないはずである。ところが、どうにも日本では、世俗仏教主義という虚構が蔓延した結果、その辺の「顛倒」が、無意識的に行われているように感じる。だが、それは本来のあるべき問いとは無縁であって、結果的に先に引いた久保田氏の問いは、勤めて無駄なモノといわざるを得ない。

こういう書き方をすると、在家者に対する「差別」か?と糾弾する声も聞こえてきそうだが、拙僧の意図はそこには無い。むしろ、その区別を正しく行えないままに、下らない問いに巻き込まれる無駄を省こうとしているだけなのだ。仏教を学ぼうと思うのなら、その立場や環境に合った学び方があるはずだ。拙僧も、月例の『正法眼蔵』勉強会を行うたびに思うのは、やはり道元禅師の教えというのは、周囲にいた出家の修行者向けが多く、在家のまま日常の生活に活かすのは、難しいだろう、ということだ。

難しいというのは、不可能を意味しないし、部分的には可能であろうと思う。だが、やはり『正法眼蔵』は叢林・道場、或いは普通に日本の何処にでもある禅宗寺院での生活があって始めて活きてくる教えである。だから、後は、その中から、如何にも在家の生活でも活かせそうな文脈を探して、その上で、学びを進めていただくことを願うばかりといえる。なるほど、久保田氏が紹介している『維摩経』のように、居士のままに深遠なる智慧を学ぶ例はあると思うけれども、果たしてあの維摩居士とは、今の我々が想起する「在家者」と同じなのだろうか。『維摩経』については以前、【維摩居士の正体について】という記事を書いたことがあるが、とてもそんな単純な話では無い。かなり特別な地位(宗教的に)にある在家者である。

よって、『維摩経』や維摩居士を理由にして、在家仏教を標榜するというのは、拙僧には理解し難い。そもそも、あの経典で批判されている出家の菩薩というのは、何者なのか?実在した存在なのだろうか?それとも、題材的に、偏狭なる一部の修行者を、あの場で「出家の菩薩」とし、批判者を「在家の菩薩」として作られた物語なのだろうか。そういう追究があっても良いと思う。参考までに、道元禅師は『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」巻にて、維摩居士を痛烈に批判した。これをもって、一部の識者は、道元禅師の出家至上主義だというが、こちらも事態はそれほど単純では無い。道元禅師は、出家と在家との、学び方、言葉の発し方の「違い」を強調しようとしたと見るべきであり、一方が一方を駆逐するような事態を述べようとしたのでは無い。出家は在家に布施で支えられ、在家は出家を供養することで功徳を受けるという「単純な話」を準えようとしただけである。

この記事は、たまたま読み進めていた久保田氏の著作を媒介に、拙僧が思うところを述べてみた。

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