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外交官としての禅僧

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日本の人が、日本のことについて書くよりも、海外からの人が日本について書いている方が、往々にして客観的で正確な場合があるわけだが、そういう文献というのは、ことある事に参照するように意識した方が良い。以前も、『フロイス日記』を用いて、拙ブログの連載記事を書いたことがあった。ところで、そんな文献の一つに、先日、本屋さんの店頭で岩波文庫『老松堂日本行録』というのを見つけて、早速購入してみた。これは、1420年に、日本への使節としてソウル(漢城)と京都間を往復した宋希?(1376〜1446)という人の日記、或いは詩などの往復書簡になる。使節としての旅は約9ヶ月間に及んだが、その見聞や感慨を録したもので、朝鮮人の手になるものとして、最古の日本紀行文。

やりとりは当然に漢文・漢語だったようだが、一部の者だけがやりとりをしたに留まったようである。そしてその挙がっている名前を見ると、やはり僧侶が多かったようだ。その様子を以下に挙げてみよう。なお、原文に、僧侶名・寺院名には註記を付している。これは、先の文庫本に付されていたものを、拙僧の方で取捨選択したものである。

・聞慶館に宿して日本使僧亮倪の柳を詠ずる韻に次す(15頁)
 亮倪⇒無涯亮倪。臨済宗大応派の僧。別号を懶真という。無方宗応の法嗣。博多妙楽寺の十二世。応永の外寇(一四一九年六月)の後、幕府の命により、請経に託して朝鮮に渡り、世宗二年(一四二〇)正月六日に国王に謁見した。
 同じ亮倪に関する記事は、他に8箇所ある。

・承天寺の主僧に贈る(64頁)
 承天寺⇒福岡市博多区博多駅前一丁目にある臨済宗聖一派の寺。仁治三年(一二四二)円爾(聖一国師)を開山として宋商謝国明が建てた。

・妙楽寺主師林宗茶を煎ず(67頁)
 妙楽寺⇒博多区御供所町にある臨済宗大徳寺派の寺。山号は石城山。正和五年(一三一六)月堂宗規を開山に迎えて作られた庵が移転されて建造された。
 林宗⇒詳細不明

・盛福寺の僧七八輩来りて詩を求む(68頁)
 盛福寺⇒博多区にある聖福寺のこと。建久六年(一一九五)明庵栄西の開創。

・永福寺の老師に贈る(79頁)
 永福寺⇒下関市観音寺町にある元々は天台宗寺院、この時代には既に臨済宗南禅寺派。

・天寧寺《禅寺の大刹なり。津頭には人居地を撲し、山上には僧舎羅絡せり。》(87頁)
 天寧寺⇒貞治六年(一三六七)足利義詮が春屋妙葩を開山として建てた臨済宗天竜寺派の寺。尾道市にある。

・俄かにして等持寺住持恵珙・林光院住持周頌ら来りて曰く……(106頁)
 等持寺⇒等持院か?
 恵珙⇒元璞恵珙は、絶海中津の法嗣。この後応永三〇年(一四二三)に相国寺三一世となり、正長二年(一四二九)五七歳で示寂。
 林光院⇒西京の紀貫之邸が、後に寺になったもの。
 周頌⇒元容周頌は春屋妙葩の法嗣。応永二八年に相国寺三〇世。応永年間には、明からの使者を説得して帰国させるなどの功績を挙げる。

・十六日宝幢寺に帰きて王に見え書契を伝うるの後天竜寺に遊ぶ(127頁)
 宝幢寺⇒嵯峨の臨川寺の東にあった臨済宗天竜寺派の寺院。足利義満が春屋妙葩を開山として康暦元年(一三七九)に建立。開山堂が鹿王院。応仁の乱で実質的に廃絶し、鹿王院のみ残る。
 天竜寺⇒嵯峨にある臨済宗天竜寺派の本山。暦応二年(一三三九)、足利尊氏・直義の兄弟が後醍醐天皇の菩提を弔うために、夢窓疎石を開山として建立。

・臨川寺に遊びて主師に贈る《此の寺の主師は国の文書を掌る。我を見て茶を煎じて曰く、「官人の回還は十日を過ぎざらん」と。上下皆喜ぶ。》(129頁)
 臨川寺⇒天竜寺の東、宝幢寺との間にある天竜寺派の寺院。後醍醐天皇の勅願寺として、建武二年(一三三五)に禅寺に改められ、夢窓疎石を開山とする。

・西方寺に遊びて(129頁)
 西方寺⇒西京区松尾にある天竜寺派の寺院。元々は、行基が聖武天皇の勅願で開いた畿内四九院の一だったが、暦応二年(一三三九)夢窓疎石を開山として禅寺に改める。

他にも、省略したが、九州北部沿岸地域、瀬戸内海沿岸地域にある他宗派の寺院(浄土宗・真言宗・時宗が主である)にも寄っているが、積極的に漢詩を交換し、そして実際の外交活動にまで触れているのは禅宗、就中臨済宗のみである。この辺、臨済宗の僧が、当時持ち得ていた漢文読解能力の高さ、漢語会話能力、そして古典などにも非常に勝れた理解を示していたため、ヘタな高級武官や、高級文官などよりも、外交官として優れていたのであろう。上記文章にもそれが垣間見えるが、臨済宗天竜寺派の臨川寺の住持が国の文書を掌り、そして、おそらくは国の機密であったのであろう、これら外交使節団の帰国時期についても指摘している。

更に、一番最初に名前が出た亮倪という臨済宗の僧侶は、自身朝鮮半島に渡り、外交官の役目を果たしている。一方で朝鮮からの使者に対する日本での饗応も、僧侶が担当している。また、上記に見るように、建立されてから100年も経っていない、当時の京の名刹を惜しげもなく利用して、もてなしている。このことから、当時の寺院というのは、ただの宗教的施設というだけではなくて、政治的な施設にも使われたということなのだろう。確かに、いま僅かに残る当時の伽藍を見ても、その絢爛さは明らかで、まさに日本の木造建築技術の粋であるともいえる。いい加減な、飾りだけの「粋」は、その価値観を共有する者だけが理解し得るが、それを超えた真実の「粋」は、価値観を超えてどのような者にも感動をもたらす。それくらいのものでなければ、外交の場には使えまい。

そして、そのような「粋」を自在に使いこなす者が、外交官にも相応しいのだ。果たして、今の政府はどうなのだ?

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