我々はつい、油断をしてしまうと、仏道修行を「〜のため」に行ってしまう。しかし、それは決して「道理」に即しているとはいえない。
行者、自身の為に仏法を修すと念うめからず、名利の為に仏法を修すべからず、果報を得んが為に仏法を修すべからず、霊験を得んが為に仏法を修すべからず。ただ、仏法の為に仏法に修する乃ち是れ道なり。
道元禅師『学道用心集』「有所得心を用って仏法を修すべからざる事」
以前、【在家者が仏教を学ぶ方法とは?】という記事でも示したけれども、『学道用心集』というのは、全10章にて構成されており、それを順に追い掛けていけば、発心から修行に到るその道程を辿ることが可能なテキストである。無論、後に書かれた『正法眼蔵』や、『永平広録』上堂と厳密に付き合わせていけば、若干の齟齬が無いわけではないが、しかし、若い頃の道元禅師の想いを知るには貴重な文献といえる。
さて、ここで仏法を修行するのに、自身や名利や果報を得るためや、霊験を得るという目的のために行ってはならないとされる。何故かといえば、逆に考えれば、そのような目的のために修行する者が多かったといえるし、そのような他の目的のために行われる修行とは、畢竟全てが現世利益的になってしまう。ここに明示されてはいないが、おそらくは、端的に批判を向けようと思っている相手がいたはずである。その時、だいぶ後になってからだけれども、以下の言葉は参考になるかもしれない。
仁治三年〈壬寅〉四月十二日、近衛殿謁して法談の次いでに問う、「我が朝の先代に此の宗伝来すや。」師答えて云く、「我が朝に名相の仏法伝来して、仏法の名相を伝聞してこのかた、僅かに四百余歳なり。而今の仏心宗の流通、正にこの時節に当たる。神丹国後漢の明帝の永平年中に、始めて名相の仏法を伝う。以後、梁朝の普通八年に至る、時代を検するに僅か四百余年なり。その時に当たって、始めて西来直指の祖道を流通す。爾りしよりこのかた六代曹渓、青原・南嶽下に吾が宗を分つ云云。我が朝欽明天皇の時代、始めて名字の仏法を聞しよりこのかた、百済国・高麗国所伝の聖教国城に満つといえども、未だ以心伝心の宗匠有らず、ただ国家を鎮護する霊験の僧のみあり。間出して踵を継いで絶ゆることなし云云」。
〈永平六世和尚事跡を以て之を奉写す。〉
『示近衛殿法語』
此の中で、道元禅師は日本には以心伝心の宗匠がおらず、国家を鎮護する霊験の僧のみいたと批判するのである。この者達は、禅定力を蓄える修行によって、それを自らの咒力の発現へと向けることで、超人的な能力(神通力)を得て、それを認められることによって、当時の天皇家や貴族などに取り入った者がいたのである(密教を修めた者が主。修験道や陰陽道もここに数えて良い)。道元禅師は、このような修行をこそ批判され、本来の仏道の学び方を開示したかったといえる。
では、本来の仏道の学び方とはどのようなものであろうか?これは越前の永平寺に入られた後のものだが、以下のような文脈が見える。
無上菩提とは、自の為に非ず、他の為に非ず、名の為に非ず、利の為に非ず。
『永平広録』巻5-377上堂
仏道というのは、自らのためにでも、他のためにでも、名利の為にでも行うべきではないというのである。ただ、一筋に無上菩提を専求することこそが重要である。無上菩提を究尽すれば、仏である。仏である以上、我々は仏陀が得られた法のままに生きる人となる。その時、妙に仏陀を神格化する必要はない。ありがたがる必要もない。ただ、廓然と法の自然に生きること、それが仏道である。
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行者、自身の為に仏法を修すと念うめからず、名利の為に仏法を修すべからず、果報を得んが為に仏法を修すべからず、霊験を得んが為に仏法を修すべからず。ただ、仏法の為に仏法に修する乃ち是れ道なり。
道元禅師『学道用心集』「有所得心を用って仏法を修すべからざる事」
以前、【在家者が仏教を学ぶ方法とは?】という記事でも示したけれども、『学道用心集』というのは、全10章にて構成されており、それを順に追い掛けていけば、発心から修行に到るその道程を辿ることが可能なテキストである。無論、後に書かれた『正法眼蔵』や、『永平広録』上堂と厳密に付き合わせていけば、若干の齟齬が無いわけではないが、しかし、若い頃の道元禅師の想いを知るには貴重な文献といえる。
さて、ここで仏法を修行するのに、自身や名利や果報を得るためや、霊験を得るという目的のために行ってはならないとされる。何故かといえば、逆に考えれば、そのような目的のために修行する者が多かったといえるし、そのような他の目的のために行われる修行とは、畢竟全てが現世利益的になってしまう。ここに明示されてはいないが、おそらくは、端的に批判を向けようと思っている相手がいたはずである。その時、だいぶ後になってからだけれども、以下の言葉は参考になるかもしれない。
仁治三年〈壬寅〉四月十二日、近衛殿謁して法談の次いでに問う、「我が朝の先代に此の宗伝来すや。」師答えて云く、「我が朝に名相の仏法伝来して、仏法の名相を伝聞してこのかた、僅かに四百余歳なり。而今の仏心宗の流通、正にこの時節に当たる。神丹国後漢の明帝の永平年中に、始めて名相の仏法を伝う。以後、梁朝の普通八年に至る、時代を検するに僅か四百余年なり。その時に当たって、始めて西来直指の祖道を流通す。爾りしよりこのかた六代曹渓、青原・南嶽下に吾が宗を分つ云云。我が朝欽明天皇の時代、始めて名字の仏法を聞しよりこのかた、百済国・高麗国所伝の聖教国城に満つといえども、未だ以心伝心の宗匠有らず、ただ国家を鎮護する霊験の僧のみあり。間出して踵を継いで絶ゆることなし云云」。
〈永平六世和尚事跡を以て之を奉写す。〉
『示近衛殿法語』
此の中で、道元禅師は日本には以心伝心の宗匠がおらず、国家を鎮護する霊験の僧のみいたと批判するのである。この者達は、禅定力を蓄える修行によって、それを自らの咒力の発現へと向けることで、超人的な能力(神通力)を得て、それを認められることによって、当時の天皇家や貴族などに取り入った者がいたのである(密教を修めた者が主。修験道や陰陽道もここに数えて良い)。道元禅師は、このような修行をこそ批判され、本来の仏道の学び方を開示したかったといえる。
では、本来の仏道の学び方とはどのようなものであろうか?これは越前の永平寺に入られた後のものだが、以下のような文脈が見える。
無上菩提とは、自の為に非ず、他の為に非ず、名の為に非ず、利の為に非ず。
『永平広録』巻5-377上堂
仏道というのは、自らのためにでも、他のためにでも、名利の為にでも行うべきではないというのである。ただ、一筋に無上菩提を専求することこそが重要である。無上菩提を究尽すれば、仏である。仏である以上、我々は仏陀が得られた法のままに生きる人となる。その時、妙に仏陀を神格化する必要はない。ありがたがる必要もない。ただ、廓然と法の自然に生きること、それが仏道である。
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